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ここは仮想状態でのキリスト教信者たちの住む村です。伝統的な生活スタイルを維持しながら、芸能や意匠によってキリスト教信仰を伝える器として耶蘇村は在ります。人の集落には大きく分けて、経済的な面と祭儀的な面がありますが、伝統的な集落においては経済のみならず祭儀的な絆が強いという特色があります。土地々々に特有の風物や地形にひそむアジアの伝統宗教における素材を、キリスト教の言葉で説明するときに浮かび上がる課題を提示するのも、耶蘇村の務めかと思っています。 日本宣教での過去の歴史においては、明治の初期には耶蘇=邪教という差別が厳しかったこともあり、キリスト教信仰を持った人々のうち開拓団として赴いた人々が居ます。開拓団の多くは北海道に赴きましたが、長野の軽井沢、山梨の清里という避暑地も宣教師によって開拓された山村でした。都市部では熱心に西洋の思想を吸収する武家出身の人が指導的だったキリスト教ですが、こうした開拓に赴いた人たちは政治的には非力ながら干渉されない農村という道を選びました。開拓と自由はある意味でピューリタン信仰の理想でもあったのでしょう。現在かれこれ100年経った北海道の地元では、キリスト教が檀家宗教として位置を占めています。しかしながら教会的には信仰を抜きにして教会墓地に籍を置きたがる情況が有り難くないというのが実状のようです。また戦国時代からの迫害に耐え、九州に今も残るカクレキリシタンも、集落こぞって様々な祭儀を継承しながら、基本的には先祖供養の性格をもっているとも指摘されます。 日本において弔いが宗教の基本部分であることは承知しても、それが宗教的救済の根幹を占めているかのように言うのは個人的には承知できません。礼拝という特別な奉仕がもたらす世界観があの世でもこの世でも命をもたらすものと理解されて、はじめて救済の意味を知るのだと思います。それがあるときには娯楽や遊興にも傾く性格をも持っていたことは、日本の庶民芸能や郷土玩具に名残をとどめているとも言えます。これらの芸能は江戸時代の檀家制度によって縁起が解体されて個々の伝承に留まっていますが、人の生き様を宗教的に物語る秘訣を今も孕んでいます。 耶蘇村は生活と祭儀の渾然一体とした共同体であり、神にあって悲喜交々を体験する人々の生活様式でもあると考えています。ここでは仮想状態である制限をそのままにして、可能性のある事柄を書き連ねてみたく思います。 ![]() |
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