2003年2月
アジアの人々にとってメシアはどのような姿に映るのだろうか。時折考えることがある。イスラム圏では大統領はシャリフ同様に非常な敬意をもってみられるが、中国文化圏では神の人と王権の微妙な関係がみられる。王権は神授のものであるという考え方と神の選びが絶えたとき世直しが始まるという二律背反の関係である。中世に起きた一揆の多くはこうした道理を建前に末法のときを過ごしていたようだ。
また癒しの神としてのメシアもあるだろう。西洋医療が伝道の礎としてアジア諸国に残した足跡は、植民地主義が横行した近代史のもうひとつの側面ともいえる。柔和なもの、平和を作り出すものが歴史の流れに惑わされずに世を生き抜き征していくことを祈るものでもある。
それとは別に私個人が考えているのは、負のイメージを背負う人としてのメシアの姿である。凡夫、餓鬼、貧乏くじ等々、人生の教訓のために残されたとも思えるダメな人間の類型は、教訓が教訓でありえる自助努力の限界を超えて、宿命に彩られた身分秩序としてアジアの歴史に影を落としている。十字架の死をもって罪に苦しみいたぶられる者の友となられた神の人は、裕福な人にとっては貧乏神ともなりえる存在である。美しい庭園のように整備された花々を尊ぶのではなく、道端に裂き出ずる草々の生命をメシアの照らし出す福音のうちに愛でる眼差しが必要に思える。イエスがそのようなアジアの人々の隣人となられることも、あながち遠い未来ではないように思える。
2003年3月

子どもの遊びというものは大人の視点からみるとどれも小さな驚きで満ちている。たかがこんなことで子どもは目を丸くして喜んでいるのか…そういう他愛の無い遊びが実に多いのである。しかし神さまの前で私たちが賛美する、祈るという行為は、あるいはその小さなことの積み重ねではないだろうか。どんなに立派な言葉を連ねたところで、神さまは幼い子の祈りの言葉にも心傾ける。私はその真摯な一言一言に耳を傾けたいと思う。
日本の伝統文化のなかには呪い(まじない)の習慣が多く残っている。てるてるぼうずてるぼうず〜あーした天気にしておくれ!とか、指切り拳万、嘘付いたら針千本呑〜ます!など、子どもの遊びのなかにも将来に対する願掛けや、因果応報の理(ことわり)が忍ばされて、天気になれば何が好いのか、嘘を付いたら何が悪いのかというふうに、子どもなりの遊びのルールのなかで人間同士や自然との付き合い方を訓練していたのだと思う。むしろ子どもはそうした大人の現実の下で他愛のない遊びに映る自分を見つめているのかもしれない。
聖書のなかにそうした遊び心はあまりあるとは思えないが、子どもであるということを大らかに受け止める文化のなかで、視線を下げて対等に渡り合うための作法を模索するのも良いように思う。私は民謡や童謡のなかにそれを歌うことで生きてきた人々の知恵を感じるし、その知恵が、信仰に生きる人が詩篇を大切にしてきた伝統と重ね合わされていくことを願っている。
2003年4月