今月のひとこと

 毎月の表紙で勝手気ままに書いている歳時記です。
  
2000年10月
 教会でお茶を出されると、たいてい話しがはずむ。職場ではそういう訳にはいかない。多分、時間を非生産的にするよう促しているからだろう。サクラメントが共有するものは職能に依らない神の慈しみ。非生産的であることを当然のように受け止められる謙遜のときでもある。
 

 
2000年11月
 クリスマスでにぎわう前の季節。教会ではユダヤの習慣にならって秋の収穫感謝祭が開かれる。冬仕度に備えられた穀物、野菜、果物、魚類・・・どれをとっても甘みのあるおいしいものばかり。感謝の礼拝の後は、聖餐卓に並べられた捧げ物が、教会に足を運ぶことの困難になった老人、病人のもとへ届けられる。
 

 
2000年12月
 冬至をむかえる冷え込みのきびしい季節に、古代の人々が祝った太陽の祭り。クリスマスの起源は、異教世界に入ったキリスト教会の大きな転換のしるしとなった。ゲルマンの人々は木々に宿る神々を切り倒して改宗のしるしとし、北欧のサンタクロースは原住民と同じトナカイに乗って恵まれない子どものもとへ祝福を届ける。日本の人々は富める象徴としてクリスマスに興じて、いそがしい師走(しわす)を益々いそがしくしている。捧げるものを持たないクリスマスの心はまずしい。
 

 
2001年1月
 初夢とはよくいったものである。二人のヨセフ(ヤコブの息子、イエスの父親)は夢の中で現実に起こることを察し、不思議な人生の岐路を受け入れる心備えをした。現代における夢の世界は精神医学の発達によって、人間の欲求と脳の機能で説明されるパラダイムをもっている。だがまだまだ多くの世界では、夢は見る人の現実と社会の鏡として信じられ、それゆえ夢は受け身の祈りとして人の内で芽生え育っていく。夢から覚めたような争いや憎しみの絶えない世の中で、自分の願望だけで夢を見るのは悲しいものがある。いい夢を育みたいものだ。
 

 
2001年2月                 
 幼いころ、節分の炒り豆をばらまくとき、典型的な核家族の我が家では誰が鬼のお面を被るのかが一大問題だった。無邪気に変わり番子に鬼の面を被っては逃げ惑う鬼。鬼はだれでどこからやってきたのだろうか・・・。やがて罪ある自分と面と向かう年頃になり、子どもが楽しむ儀式のようには簡単に追い払えないことに気付いたとき、鬼はもう一人の忌むべき自分であり、簡単に忘れ去ってはいけない存在になっていた。そんな自分を抱きかかえ痛みを共にする愛を知ったのは、イエスの十字架を知ったときだった。愛することは実際に痛みを伴う行為であり、暴力に屈せずに憎しみ合う隣人に誠実に応対する勇気を与えてくれるのは十字架の愛である。
 

 
2001年3月
 雛祭りはかつては流し雛といって、穢れ・疫病を祓う形代(かたしろ)として、一度飾った人形を身代わりに川に流したという。人の犠牲の由縁も感じられ、同じように「へび嫁入り」という話しもある。村の名主が蛇に田の水を潤す代わりに娘を嫁にやると約束し、娘は村の豊作のため犠牲となる。宗教や政治にはそうした犠牲を美徳とする傾向が多いが、人の労苦と欲望が絶え間ないために集団の犠牲となる悲劇もやはり収まる気配がない。キリストが栄光のうちにただちに天に昇らずに、十字架の死にいたるまで人間であることにこだわった訳は、人間自身が人の犠牲を産む罪の深淵さに注目していたからではないか…。彼が天から再び地上にやってくるとき、歴史の影に積み重なる犠牲の人々の魂が呼び覚まされ正しい裁きを迎える。
      

      
2001年4月
 花見の季節である。古来の花見は物見遊山に出かけ梅と桃とに尽きていたが、桜がめでたがられるのは江戸中期以降である。とくにその艶やかな咲き乱れぶりは、花雲や花筵(はなむしろ)と言われるほど豪勢な咲きっぷりで、派手好きの江戸人には大いに請けたようである。その散り際の潔さも、芸能の世界では気っぷのよさに結び付けられる一方で、客寄せの隠語としてサクラという偽りの華やぎをも象徴した。かつての梅や桃には、花も実もある実体の伴う季節の移ろいが求められたが、桜には葉桜が無粋に思われるように仮初めの実体しかない。人の生涯は草花に等しく空しいとは、詩篇や預言書で重ねて言われることであるが、その小さな草花にもただ空しいだけの存在を許さないのが、神の慈しみであり平和である。キリストの十字架の死は、人の刹那に向けられた神の愛であり、復活の初穂となって罪と死の縄目から解き放たれる希望を与えてくれる。キリスト教徒の祈りも、人の弱さに基づいた実りあるものへと結びついていかなければならないように思う。
      

      
2001年5月
 端午の節句といえば、鯉のぼりと菖蒲。鯉の滝登りは威勢のいい活力の源、菖蒲は古来から病気を退散させる薬草とされてきた。いずれも男の子が元気に育ってもらいたいための縁起担ぎではある。菖蒲を尚武と言い換え武勲を愛でる風潮は、庶民文化に押されがちな江戸の武家社会のささやかな見栄とも感じられる。ことわざに「いずれアヤメかカキツバタ」というのがあるが、人生の旬を極めた者たちが出揃うさまは、そうした武勲に勝る栄誉である。聖書の「人の生涯は草のよう…風がそのうえを吹けば消え失せる」という刹那な罪人の姿を、イエスは言い換えて、神が野の花に着せる花はソロモン王の栄華に勝るとした。人に愛でたがれるような花は咲かずとも、人それぞれの花を根っ子から見つめる心をイエスは持っておられた、そう思えるのである。心の貧しい人に天の国を、悲しむ者に慰めを、柔和な人に大地を、義に飢え渇く者に正義を…イエスが目指す国は果てしなく希望の花を咲かせようとされている。神の平和の徴ともいえるこれらの花々は、アヤメやカキツバタのようになかなか出揃うものではない。
      

      
2001年6、7月
 世の中には夏に控えて様々な工夫がある。滋養をつけようと土用の鰻、生活水の衛生に井戸浚い、河辺で夕涼みと洒落込むもよし。キリスト教会で祝うペンテコステ(五旬祭)も、もとは春麦の収穫の時期に合わせて祝うユダヤの祭であった。モーセが十戒を授与された記念ともされるが、キリスト教会では聖霊の降臨を祝う。ともに神の御心が凡人にも判る方法で示されたことを祝うときでもある。夏に備えた先人の知恵も、たとえ商売の道具に成り果てたところで、基を辿れば変わらぬ季節の移ろいに己を質す姿勢が見え隠れする。そうとすれば聖書の言葉もまた、人の心の隙が遷ろうことをよく知る神の深い御配慮をつぶさに知る善き機会となろう。うっとおしい梅雨を縫って、山べにはホトトギスの鳴く声もちらほら。夏のおとずれも間近である。
       

      
2001年8月
 ともかくどえらい猛暑である。どうやらオホーツク海のシベリア高気圧が異常に張り出して、太平洋の高気圧とがっぷり組み頑として動こうとしない。北海道には珍しい梅雨がみられたのは、そこが組み手の先鋒だからか。ヤコブのあだ名、イスラエルは、神の人と川辺で相撲をとった故事からくる。「神(エル)と格闘する」という意味だそうだ。ヤコブも兄エサウとの因縁の再会を前に、互いに一歩も譲らず夜が明けるまで取り組みを外さなかった。夜明けになって姿を悟られるのを畏れた神の人は、ヤコブの腿の筋を打って動きを封じた。両者互角の好取り組みの最中の無粋な反則技。はたまた反則技で事無きを得ようとする神の人への腹立ち紛れか、ヤコブはせめて相手から祝福を得ようと、これまた執念の申し出をする。エサウのそら恐ろしい因縁を前に本当に欲しかったのは平和の絆。決して神の人の差し金を払い除けてまで、力業で奪い取る質のものではなかったように思える。アジア太平洋地域の終戦を祝う記念の日も間近に迎え、経済的優位や政治的策略に依らない、地に広がる平和を低姿勢で眺める。統計では推し量れない人の命の重さと、痛恨と改悛の念を深く覚える好機でもある。取り組む相手を間違っていては、新たな痛恨の芽を育てるばかりになるか。オホーツク海の高気圧の張り出し具合は、例年になく威張り散らした何者かを見るようでもある。

      
2001年9月
 猛暑もフタを開けてみれば稲は大豊作、八月中にはほとんどの田んぼで稲刈りを終えてしまうほどの勢いだった。刈りおえた田んぼに通り雨のあと、鳩の群がなにやら嬉しそうに突いばんでいる。おこぼれがあったのか、秋の知らせを聞いた虫がいっせいに地面に這い出してきたのか。ユダヤの風習には、麦の穂をわざと畑に刈り残して置く習慣がある。その後を寡婦や孤児など生活に困っている人々が自由に拾ってよい算段である。ダビデ王の祖父にあたるボアズは、そうした慈しみのなかで寡婦のルツを見初めた。なんとも奇遇な出会いである。季節の巡りは一見して毎年の繰り返しのようでもあるが、そのなかで神の言葉に従順に従っていた人には哀れみと救いのしるしが準備されているように思える。それは先の鳩が群れる程度の些細なものであるかもしれないし、ルツが頼りにしたおこぼれのようなものかもしれない。しかしささやかながら感謝を忘れずに受け取る歩みこそが、私たちを確かに支える平和のしるしなのではないかと深く思う。 

      
2001年10月
 二ヶ月も前のことで恐縮だが、財布を買い換えた。前に買ったのは二十歳のときだったので、使い出してからカレコレ十三年の年月が経つ。そろそろ尻尾が五本ほどに分かれて、人の言葉を話し出す…とは化け猫のこと。小銭入れの金属ボタンが剥がれそうになったのでとうとう買い換える決心をした。新しい葡萄酒は新しい革袋に、と主イエスの言葉にあるが、古い葡萄酒を飲めば古い物もまた良いもの、というルカ福音書の注釈もなかなか味のある言葉である。もぬけの空になった古い財布は、今まで色々詰め込んでいた所為もあってか、ぶかぶかにくたびれてしまっていた。全くご苦労様である。一方の新しい方は、最初は小銭の出し入れやらなにやらでキチキチだったが、馴染んでくるとそれはそれで使い勝手が良くなってくる。十年単位で使い続ける物なのでワザと硬めの革を選んだが、二ヶ月で馴染んでくれたのはこれ幸いというもの。主の掟も最初はキツイものに見えても、馴染んでくればそれはそれで生活に張りがでてくる。新しいことばかりに目を奪われがちな夏が過ぎ、キリストが見繕ってくれる人生の破れにも思いを馳せる秋のひとときである。
      

      
2001年11月
 師走に入る前の今頃は、何かと仕上げの時期でもある。学問、芸術のことはいざ知らず、収穫できる秋野菜もほぼ出揃い、甘みのある美味しい鍋物の季節と相なる。鍋物は野菜や魚肉などの具を多様に揃えて旨味の増すものだが、ただぐつぐつ煮るだけではなく、だし汁で旨味を引き出すことが肝要である。
 今頃はヨーロッパでは万霊節の季節であり、先の死者を追悼する様々な行事が各所で行われる。日本のお盆のようなものであろう。一見してキリスト教宣教が熟したヨーロッパにおいても、人の人生は多種多様であり、個人のエッセンスを引き出す共通言語としてキリスト教文化が存在するようなところがある。人間の個性は公のなかで社会性を機能させている一面がある。そうした市民権を得るのに千年の長い歳月と多くの犠牲をかけてきた歴史を追悼するのである。
 一方で日本の文化は相も変わらず八百万の神と魑魅魍魎の巣窟で、流言飛語で政治が成り立つような具合だが、そうした村社会が中央集権体制を取るのは、ある種の力への希求なのかもしれない。そう思うようになった。国益が国民の幸福に繋がらないという矛盾を生きる不景気な世の中で、これまた国益に群がる人々の構造改革が叫ばれる。国益が税金にしか換算できない政治は、具のない鍋物と同じではなかろうか。蛇足ながら具(民)の揃わない鍋(政治)はいつまで煮ても(議論しても)いい味は出ないものである。出汁を煮上がらせる甘煮(公共投資)だけを出されたのでは胃がもたれるばかりだ。秋の野菜(中高年)はそれぞれが甘くて美味しいと謳われる世の中になることを祈るばかりである。
      

      
2001年12月
 師走である。兎にも角にも、年の暮れぬうちに事を収めんがために師匠も駆け廻るほど忙しい。そういう季節である。年を越すあたりになると除夜の鐘を聴きながら蕎麦など一杯…といきたいところだが、百八つもある煩悩を頭に巡らして、今年のあることないこと云うのも日頃の摂生が悪い証拠でもある。こういう煩悩に突き動かされて巡りの悪い人を凡夫(ぼんぷ)などというらしい。
 一方でイエス・キリストは生まれながらにして神の品格を備え持っておりながら、ナザレの村の大工の息子として生まれた。弟子にしたのもガリラヤの漁師など、あえて生まれの高貴でない人ばかり。最後には罪人の姿をとって十字架に死んだ。これを凡夫の生涯と云わずにいられようか。徹底して凡夫足り得た神の子は、罪に嘆く人を深く憐れみ救いの手を差し伸べるお方でもあった。心の貧しい人、悲しむ人、これらの人を幸いだと言い得た人は、凡夫の姿勢を崩さずに生き抜いたお方でもあった。キリストが凡夫として大いに泣き、凡夫として大いに笑うことの愛おしさを思いつつ、自らの儚い生を振り返る






  戻る
   Back