2002年1月
一年の慶は元旦にあり、と言いつつも目出た目出たの御馳走三昧というのも、ちと脳が無さ過ぎる。心を入れ替えなど口を酸っぱくしたところで、七転び八起きというのが精々のところ。良くも悪くも昨年の精進を心機一転して焼き払うダルマ供養の季節と相成り。
墨絵に描かれる達磨上人は厳めしい頑健の男であるが、縁起物のダルマは丸ぼったい可愛らしいもの。聴けば農家でお蚕さんの繭の形を真似たらしいとのこと。そう言えばなるほど、ざるの上で辛抱強く育つお蚕さんの姿と、ダルマさんのぐらりぐらりとおじぎする様が妙に重なってみえる。
主イエスがエリコの町を出たところ、道端に座っていた盲目の人が大声で叫んでいった。「ダビデの子や。わしを憐れんでくだせえ。」何せ目が見えないものだから、人だかりのするほうへ目暗滅法に叫んでおる。「ダビデの子や。わしを憐れんでくだせえ。」所詮、道端の乞食が金目の物欲しさに叫んでおろう、多くの取り巻きはヤレ黙れだのソラうるさいだのと却って騒々しくなるばかり。しかしイエスさまはその人に「何が欲しいか」と尋ねると「目が見えるようになりたい」と答え。この盲目の人はただこのときのために辛抱し、主イエスが手を差し伸べられるのを待っておった。必勝祈願のために叫んで、目を入れてもらったのではなかった。七転び八起きとは人生の節目々々に神の御前に跪き、手を差し伸べられる主に寄り頼み起きあがる礼拝の姿でもあるように思う。
2002年2月
立春とは名ばかりの寒い日が続く。そろそろ旧正月なのだが、元来、正月は立春に祝うものらしい。ちょっと考えれば可笑しな話しなのだが、明治時代にヨーロッパ標準の太陽暦に変えた時点で、旧暦の行事の季節感が皆ずれてしまった。なもので昔の暦の名目だけを使ったところで普通に数えれば一月遅く何事もやってくる。強引に脱亜入欧を目論んだ政府が悪いのか、古えの言い伝えを文面通りに引き継いだ神官が悪いのか、今となってはあきらめるよりしょうがないというべき。ひとたび月に帰ったかぐや姫はもはや戻って来ないのである。
一方、中国では暦の使い方が二重であっても、自らが培った古代の長い歴史が横たわっているので誇りをもって行事をこなそうとしている。これまた合理的な思想というべきものである。東北には三春といって梅、桃、桜が一斉に咲き誇る土地があるが、寒い地域には寒いなりの春の喜びが備えられている。自分の目線で季節を眺めることには生活に安堵を感じさせる。
暦と歴史の歴は同じようで同じでない。片や循環する日々の時間であり、片や記念となるべき事を受け止める時間である。ところがヤハウェの歴史は循環であると同時に宿命に転じない生きた時を刻む不思議な存在である。一度起きた記念的な出来事が全ての信仰者の旗印となる。私たちにも洋の東西を問わないヤハウェ独自の歴史が流れ刻まれているか。心臓の鼓動、息の続くかぎり、慈しみと感謝の繰り返しと記念の時間を刻み続けるようでありたい。
2002年3月