祭儀的生活 アジアの政治とメシアニズム |
B【メシア信仰による自由な絆】 | |
![]() 一方で、ナザレ人イエスの歩んだ集落の絆はいたって小さいものでした。王家の血を引くとは名ばかりの、田舎の村大工(財産のない肉体労働者)の親元で育ち、彼の語ることといえば羊飼いや農民といった権威にはほど遠い人々の生活でした。神の国の到来とメシアの出現を公言したときでさえ、拠点を構えずに弟子たちと共に放浪の旅を続けていました。イエスに出会った人々は、おしなべて無名の社会集団に属していました。というよりも社会に取り残され孤独でさえあった人々が、個別の体験のもとにイエスに出会っているのです。この点でイエスの生涯は、弟子たちの視点(使徒の伝承)を外れたとき、あまりにも奔放で野放しの絆で結ばれています。自然ともいえる移ろいに任せきったナザレ人イエスの絆は一見無責任なようで、実は父なる神の御手に委ねる祭儀的な絆のあり方を問い直しているようにも感じられます。こうした神の奔放で自然な態度に敏感に生きることも、メシアニズムのうちに自然観を養うヒントになるのではないでしょうか。ただし特別な才覚の持ち主に支配されるのではなく、聖霊(神の言葉)に支配される預言的な集いの到来と、その分与としての祭儀の在り方(教会政治も含む)を、多彩な自然観の内に留めることがテーマとなることでしょう。 もうひとつ付け加える方法として、パウロの伝道旅行があります。パウロはローマ市民として使徒的信仰の伝達方法を地中海商業圏のシステムに馴染ませることに成功しています。自由な航海を保障され、各都市に置かれたユダヤ人講堂(シナゴーグ)を巡回し、手紙というメディアで宗教理念の一致と協力を促すなど、祭儀一辺倒だった当時の宗教メディアの思考では考えの及ばない方法で伝道を展開しました。逆に土着の祭儀に固執する人々からは、それが偶像礼拝であれ割礼を求める律法主義であれ、激しい抵抗に合うのが常でした。そして当時のローマは皇帝礼拝の巣窟、ペトロの手紙でバビロンとも隠喩されるほど政治的メディアの規制が強い所でしたが、そこでもキリスト教会の群れが存在していました。パウロの伝道方法は、こうした極度に文化的規制の強い地域にいる人々との間にも教義の一致を施すことのできる一般性(エキュメニズム)があったといえます。そもそも祭儀中心の伝道方法では、各地方都市の生活習慣に馴染まないまま放置されたのではないかと思われる節さえあります。イエスの牧歌的な伝道が、パウロの都会的センスによって一般化され、再び各地方に根付いたとも言えます。そして東方正教会がそうであるように、各地方教会は独自の伝統のなかで典礼式文(ギリシア、シリア、エチオピア、など)を保有し伝承することもできたのです。私たちにも、抽象化されたエッセンスとしての教義伝承から根を下ろした、アジア地域における典礼と生活の結び付きが必要と思われます。また、その伝統の熟成には数百年の時間が必要ともなるでしょう。 ![]() ![]() ![]() |
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