祭儀的生活 アジアの政治とメシアニズム |
A【アジアでのキリスト教伝道】 | |
![]() 私がキリスト教伝道について個人的に感じている問題は、アジア文化が西欧から見たキリスト教伝道の終末的な地域として、この世の終わりを予見させる破滅的な状況を安易に許す事態が、ここ200年の間続いていることです。そしてイデオロギーを支配する父なる政治が破綻するたびに、環境破壊と貧困の痛みを受け止めているのが、伝統的に母性を強いられる自然と民衆なのです。特に科学の発展が著しかった近代200年の世界史は、ヨーロッパ社会が西暦1000年前後から自らに課した、世界のキリスト教化の近代的な展開であると理解できます。聖書に刻まれた神と人との歴史を政治的な営みに置き換え、神の民の支配を科学の力で実現しようとする働きには、もはやキリストの愛は存在しないばかりか、地上の世界に大きな歪みをもたらしているとも考えられます。私はキリストの福音を抜きにした滅びの宿命は予定説に相容れないものであると考えます。 古代イスラエルの祭儀は幕屋(テント)から神殿、民族宗教への変換をみたものの、それは歴史の円熟や衰退という優越の問題ではなく、それぞれの祭儀様式のなかに見出される一貫したヤハウェの臨在の歴史だったと考えられます。このため宗教の類型が生み出す自然観の隔たりは、ただ現在の世界に並行して存在する人間の意志決定のみに依存するのではなく、ヤハウェの創造の営みにおいて和解し、慈しみの奉仕に参加できる賜物を与えられています。 私はこのような近代化の誤謬からキリストを取り戻すために、これからのキリスト教伝道が豊かにアジアの文化を擁護し、かつ豊かに福音の穂を実らせるように、アジアのクリスチャンが自身の責任としてキリスト教の文化的深化(inculturation)を展開していくことを課題としています。 ![]() ![]() ![]() |
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