祭儀的生活 アジアの政治とメシアニズム


C【メシアの祭儀的支配】
在のところアジアのキリスト教史は未成熟で、歴史や事実の積み重ねに寄らず、民間口承(神話、伝説)の途上にあります。いわば個人的な宗教体験が真実を語り、歴史によって培われた事実は教会の外に存在する傾向にあります。その意味でアジアのキリスト教会は社会システムからの疎外感が免れないとも言えるでしょう。

 私の考えでは、アジアのキリスト教史が抱える人間本意の事実を認めたうえで、民衆が歴史的事実として保有している国家宗教、諸教団の縁起を解体し、原始宗教の体験へ直接キリストの衣を被せる作業を模索しています。祭儀(典礼)とはそのための道案内であると理解しています。

 旧約聖書のヒゼキア王の時代、イスラエルではアハズ王の宗教倒錯によって神殿は荒廃していましたが、ヒゼキア王の命で新たに過越祭を遂行します。祭儀はダビデ王の頃の伝統を重んじて行われたものの、細目の方法についてはいい加減なものでした。統率がなく自分自分の思いで持ち込まれた生け贄はやたらと多く、そのため屠殺する祭司が足りないので臨時に聖別する、また不慣れな会衆は清めの儀式を怠るなど、散々なものでした。それにも関わらずイスラエルの民は、国家として南北に分断されていた政治的垣根を越えて、また寄留していた異邦人も交えて、ひとつの民として過越祭を祝ったと言われます。祭儀(典礼)が精神的にも肉体的にも宗教体験を新しい歴史へと導く絆であることが理解されます。

 一方で古来より歴史は、王権授与の歴史でした。そこでは地上の王が政治や宗教の世界を司る姿が描かれ、その繁栄と衰退の繰り返しのうちに、地上を治める知恵を見出そうとするものでした。

 しかし、創造主たる神はひとり子であるナザレ人イエスを遣わしました。彼こそが真実の王(メシア)であり、神の求める本当の慈しみと平安とを実現する全地の主(キュリオス)なのです。メシアの権威によれば、地上の王権授与(戦争と殺戮の権威)の歴史は敗退し、「柔和な者は幸いである。彼らは地を受け継ぐ。」という福音が実現します。

 私たちは長い王権授与の歴史が積み上げた偏見や差別などの、互いの負い目のなかにありながら、これを癒し民衆的な地平に広がるヨベルの宣告の歴史は、メシア王の権威のうちに解放されると信じます。礼拝はそうした縄目を解放する出来事として記念されるものであるべきです。

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