淡の日々 其の五

ここで新製品の割にはあまり自慢されることの少ない
と言っているあいだに生産中止となったモノクロ・ハイレゾ機
PEG-T400の愛しさについて声枯れに語ってみた。



5−1.UGにもなれない孤独なデバイス

 私は未だパーム系のユーザーグループ(UG)に参加したことはない。ここは田舎だし、オフ会にでも出かけようものなら終電を気にして行かなければいけないし、何よりもお酒は空っきし飲めないのだ。と、色々難癖を付けながら行かないでいるのだが、もっと始末の悪いことに黒クリでクリエ・ユーザーの話題に乗るのは酒を大樽で飲むよりも至難の業である。MP3やムービー系はもとより、写真を見るという「クリエらしい」遊び心に満ちたものはいっさいない。それでも私の周りにパームを持ってる人が居ないので、見比べるまでもなくこの端末が自分に合っているように思っている。そもそもPDAっていうのはそうしたえり好みの激しいものではないか。

 ところがこのT400はこちらのえり好みだけではなく、自身も気むずかしい端末である。つまりこの端末特有の使いこなし(Tips)が多々ある。例えばハイレゾ対応のアプリでも、OS上での扱いはモノクロ=ローレゾだったりするので、一度SwichDashでハイレゾの認識を解除してあげないとアプリ側で困惑してしまうことがある。当然ハイレゾ対応のものは解除してもハイレゾ・フォントで表示されるのだが、PookやXiinoなどはそうすることでアプリの起動が早くなったりエラーをほとんど起こさなくなる。こうしたことはある意味おまじないのようなもので、ハイレゾアプリにハイレゾ解除を指定するという矛盾したことが平気で起こるのがT400である。逆にハイレゾ対応を謳ってないQuickSheet5.1.1やHyperDiaなどはそのままハイレゾ文字で使えたりするので、なんだかなぁと思うのであるが兎も角それで問題なく動くのでそのままにしてある。

 新しいアプリを入れてみるごとに、こうしたああしたの連続なのだが、ふと周りを観てみるとそうしたことに時間を掛けて血道をあげてる人など既になく、他のクリエらしいかパームらしい端末に乗り換えているか、または欠点を補うべく他のマシン(「多」ともいう)と一緒に囲まれているというのが正直なところのようです。フッ…所詮、半ば道楽の範疇でやってることですから、なにも未練がましいことはないが、ノウハウの蓄積する前にユーザーからもメーカーからも見切りを付けられたようで、モノの命ってぇものはなぁ…十分未練タラタラでございます!!…(^_*)\バキッ

【追記:ネットで見かけた黒クリ・ユーザー】
限定色に惑わされずいちよ手塩に掛けているということで。

●丑や:革職人のこだわりが黒クリに魅せられた訳は?
●右脳^^耳鼻科さん:なんだかんだ言って時々登場します
●彩音五郎さん:モノクロマニアだそうですぅ〜
MUNA'S SQUERE:ハイレゾ+電池の持ちがベターのようです
ThinkPadな日記:ThinkPad→T400Bという正しい進行形
Keep Yourself ALIVE!:中古で購入してメインの座に
Chika's Home Page:最近メインを黒クリに戻したようです

『あの人のパームを見たい!』シリーズの黒クリ・ユーザー
 (なんでみんな揃ってMac&黒クリなんしょね?)
会社員 宮崎文夫:会社と家の共通のデータを持ち運ぶ
中学生 dogaemonくん:モバイル環境を使い倒す偉い人

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5−2.梅雨に咲くあじさいのごと

 黒クリはそのボディの精巧な造りに似合わず、どこか儚い雰囲気を漂わせている。伏し目がちというか、いつも「あの…」「その…」「いえ…」という感じでハッキリと物を言わないというか、妙に古めかしい日本的情緒をもっている。私はこの黒クリの一見ナヨっとしていながら、障子紙に霧を吹きかけるとしゃんとするような雰囲気が好きなのだが、元気にスケジュールを乗りこなそうと覇気に燃える人はこれではきっと鬱になると思う。黒クリは梅雨に咲いて色付く紫陽花のように、夜桜ほど月夜に生えず、かといって照りつける太陽のもとでは薄青色が散ってしまう、そういう微妙な色合いがあるのだ。モノクロなので素っぴんかと思ったら薄く紅を引いているような、そういう隠れた美意識がこのデバイスにはある。

 申し遅れたが、実はPEG-T400は薄い(幸が…(^_*)\バキッ)という以外にも、唯一の日本語×ハイレゾ×モノクロ×パームな電子情報端末という特徴がある。私的にはこのアーキテクチャが、デジタル・データを閲覧する端末として所用を満たすのに、省電力で必要かつ十分な形態であると思う。しかし多分、今後このような機種は日本では発売されないだろうとも思う。それほどにT400はモノクロ端末の未来に決定的な何かを残したデバイスのように思うのだ。液晶のもたつき、数限りないエラーの連続、アプリのえり好みの強さ…等々、このデバイスがもたらした問題は非常に重たいものがある。パームのようなアメリカ的合理主義にシッカリ貫かれたデバイスに囲まれて、PEG-T400のような動作の移ろいやすいデバイスは、二重にも三重にもやっかいな代物である。起動するたびにアプリのご機嫌伺いをするようでは、おまんまのネタも食い上げになってしまいかねない。ビジネスモデルのはずがビジネスに不可欠な安定度を欠くことは決定的な痛手であろう。

 しかしなぜだか私自身はこの移ろう感じにシンパシーを感じるのである。私の職場では、開発中の建材商品を通常の使用に耐えうる許容状態から、破壊を想定した限界状態までを、試験的に取り上げることが多い。許容状態では変形も応力も安定している試験体は、破壊領域に近づくに従って不安定になる。
この不安定の最中でも破壊する部位を特定しつつ、終局を越えるまで安全に載荷を続けるように管理するのが業務である。またパソコンで行う構造解析にしても、複雑な構造物になると接合条件の設定ひとつで計算結果が振れることも多々ある。そうした結論は常識的な値を使いつつ、起こり得る現象をいつも頭の中でイメージすることで納得のいく挙動を伴った計算値を得ることになる。私の携わる業務では、安全に使用するために不安定な情況をいつも意識するマナーがいつのまにか日常化していると言って差し支えない。思うにPEG-T400はハイレゾ対応で許容される情況が思ったより狭い(人によっては不完全と感じる)デバイスであり、普通のハイレゾ表示と同じように扱うには未開拓な要素がいっぱいあるデバイスだと思う。

 その点でモノクロ・ハイレゾというアーキテクチャは、購買者であるユーザーが興味を抱くと共に、ディベロッパー側からもまだまだサポートの継続が必要なデバイスであるように思う。ソニーがこのデバイスを開発し販売に漕ぎ着けるまでの間、新しいアーキテクチャへのディベロッパーの興味の奮起や協力関係をどの程度アピールしてきたかは、1ユーザーの私の立場からは判らないが、少なくともほとんどの人はハイレゾ対応にカラーもモノクロも区別はないものと感じ取っていたように思う。そしてアプリのカラーコードを16階調のグレースケールとして認識させることに関しても、デバイス側の設定なのか、アプリ側の配慮なのかをずっと押し問答し続けていたようにもみえる。HandEraが最初から特殊なアーキテクチャだと断って可動するアプリの選定を促しているのに対し、ソニーのハイレゾ表示に関しては既にカラー版で培ったライブラリが充実していたせいもあってか、モノクロ版のT400での特殊性に関する触れ込みはメーカー側からユーザーに向けてコメントがほとんど出されなかったというのも気になる点である。ほとんどのユーザーが、他のデバイスで正常に動くアプリをT400で使用して失敗するケースが多くみられ、私の感覚では結局ユーザー側にデバイスの検証をさせていたのかという疑問が今でも残る。

 しかして私的には、この試験的な(あるいは不完全な)デバイスがかつてチャレンジしていたハイレゾ・モノクロの壁へのロマンチックな追憶とが交錯して、乗り越えるべき課題の存在を常に意識することになる。つまりPEG-T400というデバイスの存在そのものが大きな物言わぬtoDoとして、物事は常に不安定であり、逆に足場を固めながら進まないと後戻りできないのだという自戒の念を与える。ほとんどの事柄は、過去には安定だった事も、今という時のなかで干渉し揺らいでいる。そしてお互いを排除せずにバランスをとって共存できるシステムがきっとあるはずだ…新しいデバイスが本来抱えている、そういう旨味もリスクも併存する別の視点をPEG-T400は提供してくれる。それがあえてPalm-OSデバイスの操作が簡単で動作が機敏という一般的な印象とは相反しているにも関わらずである。そして自分の理想の携帯情報端末に向かって少しづつ情況を変化させながら使っていく。ハイレゾになる以前の過去のモノクロ・アプリともにらめっこしながら、そうした気持ちを少しづつ叶えていくのが楽しいといえば楽しい。触ってる時間の多さからすると圧倒的にビジネス用途に使っていながら、志向することの大半はなんとも酔狂な使われ方をしていると思う。花なら他にいっぱいあるものを、地味な高山植物を観に山登りをするような感じといえば大げさか。

 開き直って言えば、なんたって天下のソニーでさえそういう製品を出しているのだから、凡てにおいて明快な答えの判った時点で提起するのではなく、むしろ答えのないことが今の答えであるようなパラドックスをはらんだ情況もまた真実であるといえる。そうしたワーク・イン・プログレスを製品上でやってしまうソニーというメーカーの資質(あるいは悪態)と、それを買って喜んでいるユーザー層の厚み(というか酔狂)が本来の凄味なのか(日本での土俵の取組み相手が居なくなった2002年現在、そうした冒険的な試みに付き合わせることは一般ユーザーにとって相当な苦になるかも?)。ソニーはPalm-OSデバイスの進化形を問い続け、今後もその問いを発し続けるのかもしれない。その意味で過去に出た製品は古いのではなく、むしろユーザー・ニーズに添ったトレンドのワンシーンに過ぎない。たまたま私にはPEG-T400が自分の思いに一致したデバイスだっただけである。だがこれだけ外見と中身のアンバランスなPalm-OSデバイスも珍しいと思う。黒クリを触るごとにいつもモジモジと何か言っているように感じるのは、エンジニアリングに携わる人間同士で感じ取れる妥協の産物が、高度なデザインのなかに凝縮されてしまっているからだと思う。










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