わたしの住む街![]() 今住んでいる街は、千葉県君津である。住み始めてかれこれ10年位になろうかと思う。河内生まれで育ちは武蔵野、学生時代は甲州、田舎は弘前、米沢、岩国と、転勤族の名に恥じないてんでバラバラな地域感の中で育った私にとって一番長く住んだ場所になろうとしている。 君津は房総地方の北端に属し、久留里城下に穏やかに広がる村落統合体である。明治初期には木更津県という置県になったこともあった。戦後20年ほどまでは、海沿いの漁師と山合いの農民との小さな村が点在する地域であり、富津より南の地域では今でもこれに似た様相を残している。 ![]() ![]() 墨絵のようだと評される 鹿野山奥の九十九谷 ![]() ![]() 木更津の船溜まり あさり漁や海苔漁が多い これも1960年代後半に新日鐵の君津製鉄所が海岸を埋めてからは街並みも豹変する。九州からの大勢の転出者と共に、京浜工業地帯の南端として組み入れられ、文化的にもかつての農漁関係の穏やかな思考に対して、重工業生産で鍛えられた監理思考の強い文化との二重構造を取るような具合である。(なんだか「もものけ姫」のような世界?) とはいいながら地元の人たちも製鐵関連の仕事に携わる人が多く、安定した収益のひとつにもなっているが、どちらかというと下働き的な肉体労働が多いことも確か。私自身もそうした協力会社のひとつに身を置いている。 ![]() 漁村の知り合いが少ないので様子は詳しくないが、山合いの村落出身の人は数名教会に来ている。全体の約一割程度、5〜6名といったところである。人口的には村民・製鐵関連で四分六分といったところで、地元への伝道の難しさも物語っている。山合いでは民間宗教が盛んで、講の類は無数にある。念仏講から恵比寿講、村々の寄り合いの中心となって互助会も兼ねているようなところもある。村の講に出席しない変わりに饅頭の差し入れを出すべきかどうか、そうした相談を牧師にしていた人もいる。いわゆる公の村議会と並行して、講の集い自体が村の集いとして習慣化しているようなのである。 仏事は禅寺が多いが、終わりに親族で輪になって念仏を唱えながらグルグル回る。埼玉に住む禅寺の小坊主さんに聴いたところ、千葉県独特のものだそうで、輪廻の表現でもあると同時に、盆踊りの原型のようなものだとか。近頃になって禅寺自身がチベット仏教への傾倒を深めて、お経の合間にシンバルやら唄やら歌い出す一方で、ともかく独自の民俗習慣がひっそり営まれているという不思議な地域でもある。仏事のあとに講を開いて村人だけで弔いをするのもユニークな習慣。一方で九州出身の人のなかで真言宗に帰依している人(私が見たのは鹿児島の人)が地元の坊さんにお経を頼むと、こうした一連の習慣のなかに知らず知らず立っているという感じである。もちろん九州の人には親族以外に講のような互助組織があるわけでもないが、その変わりに蘇鉄会などの製鉄所関連の互助会が相互連絡の要として存在している。また移住に等しい生活環境の変化に伴い、檀家制度が崩れた状況のなかで創価学会の活動が盛んな面も見逃せない。 さらに近年の傾向としては、こうした農漁村と重工業の二層化に加えて、千葉以北の都市へと就職に繰り出す人が多いことも挙げられる。近年のコンピュータ化した業務形態からすると、ビジネスの機会としてそっちのほうが羽振りが良いのは時代の流れでもある。そうしたことから見比べても、君津周辺の経済生活は時代の流れのなかで世代毎に著しく変化しているとも思え、地元の人は二重三重に世相の波を乗り越えているとも言える。経済成長の波の主流からすると、ちょっと遅ればせの感じはあるが、経済環境の整ったところで乗り出すのに充分な感じではある。爺さんは小さな田んぼを耕し、父さんは工場関係で働き、娘は千葉に出勤・・・こうしたパターンが一般の状況だろうか? 私がこのサイトで描く夢は、当然こうした君津という街との関わりのなかでのこともあるが、工業化を進めるアジアの多くの地域が置かれている状況の縮図であるように思える。九州出身の人と房総出身の人とでは、重工業システムの理解に半世紀以上の開きがある。これは製鉄所が来て30年経った今でも、溝を修復できない事実として根強く残っている。メインの役職供給元は地方の製鉄所や炭坑関連の街からが多いのも事実である。こうしたなかでも経済格差の二極化が穏やかに済んでいるのは幸いなことで、製鉄所と市政とが上手く帳尻を合わせているように感じる。アジア一般で起きている文化または環境の破局というには大袈裟過ぎるようなところもある。 ただし海に関して言えば、製鉄所以前は普段私たちの食卓にのぼる20cmほどのヒラメは「ネコまたぎ」と呼ばれ、そんな魚は猫もまたいで無視すると揶揄されるような、豊かな湾内漁業の地域であったように聞いている。湾内の工業化の過程で漁業権の売買が進んだなか、江戸前と言われる魚介類が高級割烹の店でしか味わえなくなったのも、ひとつにはこんな理由があったのかな、と考えてもみる。 しかし問題はそうしたこととは別に、文化的な断絶と過疎の傾向が緩やかに進行しているなかで、山合いと海沿いが人の住む所としての利便性を失いつつある点である。かつてはそこに住めばそこそこに食い物にも困らない何かがあったような気がするのだが。私のような根無し草の生涯を歩む者から観ると、30年ばかしで失うにはちょっともったいない気もしないではない。所詮は蚊帳の外から眺めた感想でしかないが、漁場も山村も基本的には人間が長い間手塩にかけて育てていくものである。そしてそれを有益なものへと導くのは金融的な資産効率だけではなく、人の心に属するものであるように思う。人は自ら生きるために神話や伝説を語り、自然の事柄を理解し育んできたのだから。たとえそれが偶像であれ、最終的には聖書の神の理解しうる神秘を言い表しているにすぎないようにも思える。そこが光であろうと闇であろうと、十字架のキリストが知り得ない愛の枯渇した場所はもはやないという勇気と信頼をもって関わって行けたらいいと思う。 しかしながら様々な教会が房総伝道に100年以上も費やしながら、キリスト教がこうした地元の人たちとの交わりに失敗しているのも確かで、私個人としても溝の埋めようが何かないか・・・と模索中である。明治期の教育改革や昭和のモダニズムは、少なくともこの地域の人々を魅了するものとはなりえなかった。今後も少なくともキリスト教が海外市場との連携に捕らわれた緩衝材に堕落しないことを個人的には祈る。国際マーケットに値踏みされ、どこにでもあったものが金融を通さないと得られなくなった時代には、遠く離れた国際問題が連鎖反応的に伝わり生活に傷を受けることも少なくない。多様性を失った世界は一義的なリスクを一気に負うことで、経済的な病気に弱い体質を造っているような気もする。世界がキリスト教的な価値観を共有することは良いことだとしても、その根拠が金儲けのタネにしかならないならば、どこに生きた神の姿を仰げばいいのか。このような思いに駆られる私には、ふたたび人の生きる姿を追いかけることが必要なのである。 |
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