祭儀的生活 ときの祈り | |
救いの歴史 歴史は事実の積み重ねであると同時に、人と人の間で語り継がれた伝承の連なりでもあります。時間の記憶は、人間の内で五感を通じて経験される記憶と、人間の口を伝って受け継がれる記憶とがあります。聖書の大きな部分を占める記憶は、伝承による後者のものです。 特に預言の内に留められた時間の軸は、時代的にも非常に幅があり、それが解釈の広がりにも通じています。アブラハムに約束されたヤハウェの言葉は、遠く永遠のときに至るまで続くものだと考えられていますし、メシアを巡る預言も、人の子という謎めいた存在を軸に、イスラエルの救世主がどのような生涯をおくるのかの希望的観測が人々に蔓延していました。教会に集う人でさえ、救いのレベルが生活の些細な安心から地球規模の問題へと、幅広くその指針が振れています。まさに私たちの救済を巡る時間感覚は、今という瞬間と永遠という想像を超えた空間の間をさまよっていると言えそうです。 ここで仮に時間を、繰り返されるものと、二度と繰り返されないものとに分けて考えてみましょう。繰り返されるもの、それは私たちが経験し人々と共有できる、または科学的に制御可能な時間であります。二度と繰り返されないもの、それは生きとし生ける物が凡て経験する、生まれることと死ぬことの間にさまよう運命のようなものです。しかし科学的に予想され制御できる事柄も、運命のいたずらに玩ばれたり、逆に方法さえあればどうにかなったことなど、想像の羽をどこまで伸ばしても尽きないものです。こうした人間の曖昧な宿命、不十分な経験のなかに、歴史というもうひとつの存在が、あたかも人格を宿しているかのように語りかけるのです。聖書は歴史が神だとは言いません。しかし神が歴史を作っている方だと讃美します。人間の不十分な経験、曖昧な宿命のなかに、神が語りかけ人格を宿す機会をもっているのです。この計り知れない時間が、永遠の記憶のなかに留められている神の創造の時間です。それゆえ救済は、人の生涯のなかで消化されるものと、そうした生命を遙かに超えて働くものとが、ひとつの人格の内に語りかけてきます。 あるいは聖書に記される救済のもつ時間は、過去の記憶の繰り返しのように感じられるかもしれません。あの頃にあったあの物語が、私のある経験と重ね合わされたと説明もされるでしょう。しかし現在起こる事実以上に、預言的な理解ということも私たちには必要です。預言によって留められた神の記憶によって呼び起こされる経験は、私たちに時間を超えて存在する救済の場を確信させます。この神の記憶に留められる救済の記念は、過去から未来に渡って永遠に語り継がれ、また絶えず繰り返される私たちの救済の記念として、今まさに祝われることです。 私たちは神の創造の時間の直中に見出されながら、今という時間を生きて共有するものです。共に分かち合う物が、今現在という宿命のなかに置かれていながら、科学的に将来を制御する以外に、祈りと讃美をもって神の創造の場とコミュニケーションする時間を持ちたいものです。祝福は私たちのもの、というよりは、神の創造の内にある凡ての生き物の手の内にある、過去から未来に渡る永遠のものなのです。 ![]() |
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