祭儀的生活 ときの祈り | |
週の礼拝 聖書は週に一度の安息日を、ヤハウェの創造の業になぞらえて物語ります。この休みの日は人間の休息ばかりか、ヤハウェのために聖別され救いの業を述べ伝える機会、つまり礼拝と合わせて考えられてきました。この休息にヤハウェの創造が完成されたゆえ、人の子はその恵みを憶え、再びヤハウェの創造の許で羽を休め、人の子の本来の姿へと帰っていくことができるのです。キリスト教会ではヤハウェの創造の完成は、キリスト・イエスの復活をもって頂点に達したとします。人の本来の姿はキリストの復活の姿に最も良く表されています。 しかしこの休息は、6日の日々の労働を抜きにしては語られません。地上における人の子の歩みは、ヤハウェの支配する国の建設に奉仕する地上のキリストの体として、その回復に力注がれる時間だからです。それゆえ日々の糧に支配されがちな私たちの生活をヤハウェは祝福し、私たちがヤハウェの前に立ちつつも地上に存在する意義を、メシア=人の子の奉仕と祈りの内に委ねられたのです。 一見労働は、祈りとは無縁のような存在です。しかし労働も神の創造の業に参与する重要な側面を担っています。だから週に一日の安息を逃す者は呪われると聖書が語るのです。その呪いとは、地上の糧に支配され続ける私たちの弱さに起因しています。争い憎む人間の性質は地上の糧を廻って起こります。私たちは安息日に、聖書の言葉により心を神に高く掲げ、パンとぶどう酒を分かち合いつつキリストがもたらす愛と従順とに心身を傾ける必要があります。キリストを仲介者とする和解と協力の徴こそが、日々の労働に正しい道筋を与え、救いの完成まで人生を励ます糧となります。 安息は労働のためにあるのもので、安息のために労働するものではありません。このことが間違っているとすれば、労働の意義がメシアの仲介から離れていることを悔い改め、地上を歩み続ける人の子の性を見直さなければなりません。人の子=イエスは、ザアカイのような出世のためなら手段を選ばないような者にさえ眼差しを向け、ザアカイに合った救いの道を示されたのです。私たちには見えない、または闇に閉ざされている事柄の世に多いことを痛感させられます。安息日だけが聖なる日ではない、むしろ日常の物事にも安息に繋がる多種多様な縁起が隠れています。その秘儀を祈りのなかで解き明かしていくことが、私たちの労働の姿であり薫り高い捧げ物ではないでしょうか。安息はこの日々の労働に供えられるヤハウェの創造のために割かれた、キリストの体=神の国の結実の機会として祝われる日であります。 また安息日は、日を追いながら月や暦とは関係なく数えられる独立した時間であり、聖書の中でも特異な位置を占めていることが判ります。私たちは日々の祈りに加え、メシアが捧げる安息日に従順でありたいものです。 ![]() |
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