祭儀的生活 ときの祈り
一日の祈り

 古代の教会では、一日の早朝と夕方に信徒は教会に集い祈りました。そのときには聖書の説教もなされ、詩篇を唄いました。また夕刻のときには祈祷会に加え、アガペー(みすぼらしいものに向ける主イエスの愛)の食卓が開かれ、富める者が整えた食卓に貧しい者も加わって一緒に食事をしました。

 私的な祈りの時間としては第三時(朝9時)、第六時(正午)、第九時(午後3時)の3回を定めていました。その折々に、主イエスが命じられた「主の祈り」を唱えるよう勧めています。この習慣には、主イエスの生涯(受肉、主の死、復活)の順を追って、各時に黙想するようにと勧めがなされました。

 祈りの時間について聖書では、まず旧約のダニエル6:11に「日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」という記述があります。新約では使徒言行録に、ペンテコステの日に「朝9時に集う」使徒たちに聖霊が下ったこと(使徒2:15)、ペトロが「正午の祈り」のときに異邦人の改宗の幻を見たこと(使徒10:9)、ペトロとヨハネが「午後3時の祈り」のとき神殿で生まれつき不自由な足の人を癒したこと(使徒3:1)、それぞれの出来事を記しています。

 しかしマタイの福音書20章には、祈りの時間に合わせて教会に集い、夕刻の食卓に奉仕した者に加え、一日の食糧を得ないまま奔走して日の暮れてしまった人にも、等しくアガペーの食卓に付くことを勧めています。それも一日中働いた者と等しく、しかも真っ先に与えられることを旨としていました。これは天の国のルールだとも言えます。このように祈りは常に奉仕とセットで考えられていました。奉仕とはキリストの身体として生きる信徒の生活の凡てを指していると言えましょう。

 私たちが祈るのは、私たちに主イエスが贖われた命が宿り、主イエスの所有であることの証しであります。忙しい毎日のなかで、ひととき作業の手を止めて祈る時間を持ちたいものです。





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