古ヨーロッパ・キリスト教美術

 ロマネスク期以前の8世紀頃から10世紀にかけてのキリスト教美術。5世紀から200年余り続いたゲルマン人の民族大移動がほぼ定住化してさらに200年後の世界でもある。
 そこには古い異教の神々の宗教が生活のなかで依然として根強く生きており、人々の意識も語り口も自然に神話の世界と結びついていた時期でもあった。
 ここではいくつかの図像のモチーフをもとに、ヨーロッパのキリスト教のトランス・カルチャルな面を考察してみたい。

●ケルトの組紐文様(北方ヨーロッパ)
 アイルランドに多く残る組紐(くみひも)模様。この十字架は7世紀頃のものといわれる。ケルト文様は渦巻き状のものが古代宗教と深く結びついていた(古代中国のラーメン文様にも注意)と言われ、宇宙の絶え間ない運動、生命の再生などのシンボルとみられている。
 一方でケルト族のキリスト教化に伴って、「渦巻き」は「組紐」へと変わってくる。エジプトのコプト教徒の装飾技術の伝来を指摘する筋もあるが、巨石文明の名残である十字架の内面にびっしり組まれた組紐文様は、それ自体が生命の理想を描いているようにみえる。

 この組紐文様はゲルマン人の間でも伝わり、北欧からドイツにかけて動物文様との組合せて装飾に使われた。
 上の碑石は10世紀頃、デンマークのハーラル青歯王がイェリングに建立したもので、ルーン文字で「デンマークとノルウェーを征服しデンマーク人をキリスト教に改宗させた王ハーラルの建立」と誇らしげに書かれている。組紐に縛られたように立っているキリストの裏には、麒麟(きりん)のような怪獣に絡みつく大蛇の格闘が描かれていて、正義の在り方が神話をベースに語られていることが解る。

 ロシアにおいても組紐文様はザスタフカという写本装飾として14世紀にいたるまで用いられた。上の北欧の例と同じく鳥獣と組紐が織り込まれている。ロシア・イコンが息吹を始める前までこの装飾は続いた。
 左の写本はさらに100年後の15世紀に書かれた異教論駁のための「聖グレゴリ講話」で、当時のロシア民衆が信じていたであろう異教の神々を片っ端から網羅するカタログともなった。
 これらを例にとってみると、組紐文様が伝える古代の聖なる記号との因縁が、北方ヨーロッパの共通観念としてあったように思える。組紐文様は古代の宗教から続いた生命への讃美がキリスト教の宣教に受け継がれた足跡でもある。こうしたローマ・ビザンチン文化との彼岸の世界で繰り広げられたキリスト教伝道の大胆な挑戦は、実に500年以上に渡る長い時間を費やしている。正統信仰が芽生えそれを受け入れる間の異端審問、異教徒迫害などの歴史はさらに500年続くことになる(もちろんこの時代のヨーロッパ社会全体がカトリシズムの誤謬に関わっており、現在のカトリック教会が一義的に非難をされる必要はない)。こうした歴史を乗り越えてきたヨーロッパ人が、異文化=異教の烙印を押して文化的正統の立場を主張するには、今は語られない部分を「文明の暗黒時代」と呼び慣わすことで自己のアデンティティーを乗り越えている背景があるように見える。


●ヘレニズム文化と生命樹(ラテン文化圏)
 キリスト教の幼年期は同時にギリシア文化の老年期でもあり、総じてヘレニズム文化と云われる。ヘレニズム文化はアレキサンダー大王の遠征にあるように、アラブからインドにおよぶ広い地域をカバーしている。この際、生命樹はアラブ・オリエント世界の宗教のシンボルであったが、広く地中海からインド、中国にまで及ぶ、古代では最もポピュラーな主題であった。

 地中海に地の利として近い北イタリア、フランスなどの地域では、オリエントの生命樹がそのまま用いられた例がある。

 この8世紀北イタリアのCividale del Friuliの洗礼堂にあるレリーフは十字架を囲む生命樹と四福音史家の象徴、そして動物の戯れる姿が描かれる。組紐の十字架が法輪であればそのまま仏教美術になるものでもある。ヘレニズム文化から受け継いだ意匠を汎オリエントな素材で埋め尽くした例でもある。
 こちらの11世紀フランスのノートルダム・ド・ロルトギエールの礼拝堂の後陣にある復活のキリスト像はちょっと大胆である。生命の樹と一体となっているキリスト、そして生命樹は女性のシンボル(女陰)としても機能して、キリストが復活の生命の内に男性も女性も命に関わる全ての原理を統一させている。このような発想は現在のキリスト教の教義からは決して出てこないものだが、11世紀当時では最新のスコラの成果として語ることができた。


 同じ11世紀ドイツでの「エヒテルナッハの黄金福音書」挿し絵では、「金持ちとラザロ」の喩えで、死んだ貧者ラザロがアブラハムの膝で慰められる、そのときの楽園に生命樹のモチーフが使われている。しかし全体的には人物描写などにビザンツ美術の影響が顕著で、先の2作品に比べると不自然な感じはしない。カロリング・ルネッサンス期のキリスト教美術は、ヨーロッパがローマ・ビザンツ文化の後継者たらんとした文化変革でもあった。
 このようなスコラ哲学とキリスト教の出会いによって生じた芸術は、それ以前は単なる装飾(それも自身の民族文化との橋渡し)であったものが、民衆の理解できるレベルを遙かに超えたドグマの象徴で聖堂を彩るまでに開花した。のちのロマネスク〜ゴシック聖堂の装飾技術を見るまでもない爛熟した中世の世界観で見る人を圧倒する。一方でヘレニズム=オリエンタルの異教文化を含めて全て無批判に吸収し用いられたため、ローマ・ビザンツ文化から受け継ぐべき教会遺産をヨーロッパのキリスト教会が見誤っていた部分も多々感じられる。その後ヨーロッパのキリスト教会が十字軍による精神的統一を果たした後、地中海の古典文化を自分のものとして答えを得るのに500年の歳月を必要としている。自身の歴史を乗り越える力はかなりの労力と伝承が必要だと思う。





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