【コラム】 社会構造のドラマ化とイエスの喩え | |
●礼拝による社会構造のドラマ化 讃美の歌詞と様式はそれが歌われる場および視座を想定する作業と常に密接に関わっている。歌う者は単数か複数か、教える側と答える側、個人の信仰を明らかにする人、歌う者を取り囲む群衆、踊りに誘うリズム、そうした様々なシチュエーションを想定して讃美の輪、教会の身体は形成される。教会はその意味でコミュニケーションを主体とした交わり(コイノニア)の性質を持ち続けている。教会の交わりには礼拝の務め(レイトゥルギア)と慈しみに感謝する奉仕(ディアコニア)が欠かせない。礼拝と交わりと奉仕とは教会を取り持つ基本要素である。そしてこれらは分離したり対立概念として捉えることは、少なくとも聖書においては意識されていないように思える。(レイトゥルギアの用法でヘブライ8:6のキリストの務めとUコリント9:12での援助を参照) ところでこうした教会の交わりには、古来からイスラエルの神殿で繰り広げられた、ヤハウェ神の伝承と臨在の祭儀にルーツがある。ヤハウェとの契約を思い起こし、その慈しみに感謝し、個々人の在り方と使命とを確認しつつ神に栄光を捧げる。神殿に捧げた生贄を同じテーブルを囲んで食することも、また契約を思い起こすための手段である。こうした交わり全体がヨーロッパの近代化の過程で、深く社会構造に浸透していったように想定するのが、礼拝による社会構造のドラマ化の主題である。そして行く行くはアジアの文化にそうしたドラマ化の手法が応用され、典礼文化が花咲くことを個人的には夢みている。 ドラマ化の過程は、もとの物語がどのように存在し、その後にドラマを構成する部品をどこから拾い集めてきたのかを知り、ドラマによって生まれた(息を吹き返した)世界観の成就がどこに向かっていくのかを見定めなければならない。一見雲を掴むような作業も、ドラマの実体を部品単位で吟味する美学から一歩外に出て、真実と現実のすきまを埋める筋立てのほうに眼を向けてみようとする次第である。 ●知恵文学とイエスの喩え イエスの喩えには、ユダヤ教の知恵文学の影響が濃いことはよく知られている。詩篇に歌われた「人の生涯は草のごとく」というくだりは「ソロモンの栄華にまさる野の花」に言い換えられ、箴言における財産や金の徳は、山上の垂訓で弱い者への神の慈しみの深さに向けられる。しかしイエスの喩えには知恵文学とは決定的に違う要素があるように思える。それは知恵文学が人間の判断に委ねる問答を仕掛けているのに対し、イエスの喩えは神の御心の宣言とも言える使命や課題を投げかけてくるのである。 「種を蒔く人」の喩えに出てくる道端、岩地、藪、良い地はそれぞれ人の心の状況を指しているが、神が福音の種をまくという事実自体には何の疑問の余地を挟んでいない。また「ぶどう園の労働者」の喩えにしても収穫があり報酬があるという点について疑問はなく、「仲間を赦さない家来」の喩えでは赦し裁く王の権威に疑問の余地はない。人はその問いかけを悟り選ぶ道は用意されていても、その道がそもそもあるのかないのかという疑問を挟む余地は残されていないのである。イエスにとって神は現として存在しその行動を押し止める者はいない。人が神の存在を判断するというよりは、神が人の生き様を問い直す姿勢が、常にイエスの喩えに貫かれているように思う。このことで、人の行いが清いか汚れているかを仔細に吟味するファリサイ派や律法学者にとって、神の権威を語り行うイエスはかなりの脅威に感じられたに違いない。 ●イエスの喩えと礼拝のヒエラルキー イエスの喩えが神の存在を疑問視しない一方で、私たちの社会構造そのものは個々人の対話を基に構成する疑問の余地の多い存在である。つまり社会は人と人との相対的な価値判断によって左右されやすい。そうした社会構造のなかで培われた個々の経験(部品)を、言語として予見的に理解するには一定の社会経験が必要である。逆にそうした経験の少ない場合には、経験を直に捉える傾向が多くなるといえる。 経験を直に伝える例としては、十字架の苦しみを言い表す場合、パウル・ゲルハルトの有名な受難コラール「血潮したたる」はその典型といって良く、その反対は「神の子羊」という象徴である。また鞭打ち苦行の習慣もまた、そうした言葉の枠を出た経験の域である。 反対に社会的経験の成熟した地域では、法学的な意味で聖書の語句を引用するだけで福音の成就が理解されるシステムがある。しかしキリスト教がローマ・ビザンチン帝国で国教化されるまでの教会は、宣教の手段において法学的な聖書の引用は地域の枠内に留まっていたように思える。つまり真理の宣言は真理を知り得る以外の政治的な手段として広い拘束力をもたずに、多くは説教することによって真理の在り方を会衆に理解させる方法を取ってきた。牧会書簡の説教には度々、会衆の置かれている状況(つまりドラマ)が反映されている。コリントの教会で起こった宣教手段の分裂、テサロニケの教会の怠惰な終末思想、フィリピの教会に宛てたパウロの牢獄生活の告白、等々。これらを挙げれば説教がいかに生きる人の状況の理解を基に福音を展開しているかが判るのである。 このようにイエスの宣教から広がるキリスト教会の礼拝の営みには、イエスの語る福音の中心から離れた、おしなべて不完全な姿と共に歩む姿勢がある。真理は霊的な存在として放たれ、様々な情況に遍在するのである。福音の真理が人々に経験されることの意義は、まさにキリスト教会(あるいは信仰者自身)において衝突し、肉体の軋みをもって語られているといって過言ではない。 そしてこのことは、本来あるべき真理と肉体とのヒエラルキー(身分秩序)に対し、十字架の死をもって逆転現象を起こしたのがキリスト自身であったということも事実として確認されるのである。あるいは人は真理(神の言葉)に従って生きるべきであるが、罪に捕らわれた人の姿を憐れむ神によって、真理(神の言葉)の側が人の姿をとって歩み始めたのである。 こうした証言は、真理が精神的な営みの限界を遙かに越えて実在の姿で生き続けようとする決意の現れのようにも思える。この存在が私たちの思い描く地位や名誉というものに、ことごとく干渉し衝突し挑んでくる様は、はっきり言って脅威そのものである。十字架の裁きのゆえ社会構造の肉体は、肉となった真理に対して置かれている状況の整理を迫られる。もはやこの現象を抑える者は人の側に残されていないようにも思えるのである。この整理を実際の社会構造のなかで適用し、経験と言葉でドラマ化する過程がキリスト教会の礼拝のあるべき姿ではないか、私個人はそのように思う。慈しみと平和は常に神と共にある。神は生きておられる。このことを証し、社会に実態を伴って示すことがイスラエル以来のキリスト者の使命である。 ●祭儀のバリエーションへの注記 もともと実体のない真理を人間の業として表象するのが礼拝の奥義である。しかし真理がはっきりとした姿をとったとき、表象するべきものは人間の生活そのものとなる。とはいいながも聖書の態度はキリスト者を神自身となるようには断言しない。話しは逆でキリストが人の姿となったのである。だからキリスト者が礼拝で言い表す栄誉の基本姿勢は徹底的にキリストは救い主であるという告白に依存する。 ユニークなことにこの告白の方法には、様々な社会構造の部品が入り込む要素を認めている点は礼拝(レイトゥルギア)の特質で述べた。また交わり(コイノニア)や奉仕(ディアコニア)には、もちろん社会的な要素があらかじめ吟味され注ぎ込まれなければならない。真理が人の姿を取った事実は、人の生活のあらゆる面において実現され憐れみの対象となる事実に相応するだけの秘儀を備えている。教会は歴史という形でその秘儀を明らかにしてきたし、今後も生きて証し続けるであろう。私たちが聖か俗かの判断を下したとしても、この歴史を止めるすべは全くない。 ![]() |
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