讃美と会衆 ルターのドイツ・コラールと中世歌謡
◆ルター編纂の讃美歌集
ルターの自筆コラール 1517年に始まった宗教改革は、単に免罪符の議論に留まらず教会の礼拝改革にも繋がっていきました。ルターは1522年にドイツ語訳新約聖書を刊行した後、ドイツ語による聖歌の編纂に意欲を燃やします。最初はパンフレットなどに刷られていたドイツ語の讃美歌も、次第に礼拝式文を伴った讃美歌集へと体裁を整え、2年の準備を経た1524年に「エルフルト提要」(家庭集会用)、「ヴィッテンベルク讃美歌集」(J.ヴァルター編の聖歌隊用)と立て続けに讃美歌集が出版されます。それまでラテン語以外での讃美歌集は、1501年にフス派がチェコ語で出した他、1522年にブラウンシュヴァイクのN.デツィウスにより低地ドイツ語で出されていました。ルターはその後1526年に「ドイツ語ミサ」(礼拝式文)を出し礼拝改革のための一通りの体裁が整います。コラールとは礼拝司式のなかで会衆が声を合わせて歌うことを示していますが、会衆讃美による礼拝奉仕は万人祭司の最も顕著な姿だったのです。
 1522年のドイツ語訳聖書の出版が宗教改革への多くの賛同者を得たのと同様に、1524年に出されたルターの讃美歌集は様々な都市での讃美歌出版に拍車を掛けます。シュトラスブルクでもルターの讃美歌は礼拝にすぐさま取り入れられ、それに感化された結果1525年にシュトラスブルクの讃美歌集が生まれました。その影響を受けてカルヴァンが1539年に詩篇歌集を編纂し始めたというわけです。

◆声を合わせて歌うこと
 声を合わせるとは、心を合わせることでもあります。単旋律で歌うことは、会衆が心を合わせて歌うのに最も適した方法です。「会衆の全員が心を込めて、ひとつとなって歌った」という当時の歌い方がどういうものだったかは想像の域を出ませんが、その精神には学ぶべき点が多々あります。現代においてこそ、単旋律の歌は個人の心情の発露と捉えられ、讃美歌の解説も作家中心の評伝的なものがほとんどです。しかし宗教改革時代の讃美歌は、会衆が讃美を通じて礼拝奉仕に参加し福音に触れる機会と捉えていました。つまり会衆讃美(コラール)は万人祭司の基本となるものでしたし、教会という共同体の歌なのです。そのため16世紀前半のコラールは教会暦と深く関わって作られました。
 後にドイツは宗教戦争による荒廃のなかで、福音に個人的な共感を込めて歌う様式が表われ、従来の会衆歌(コラール)とは別に教会歌(キルヘェン・リート)と呼ぶようにします。このルネサンスらしい萌芽はむしろ16世紀末から表われることになります。

◆中世の終わりとしての宗教改革
 ルターの時代の民衆は、中世キリスト教の文化的習慣から、すぐさま改革されたわけではありませんでした。ルターの讃美歌は作家としてよりも編集者としての意向が強く、旋律に関しては巷にある様々な歌の引用によって成り立っています。宗教改革によって新しく据えられた会衆による礼拝奉仕の座は、それまで牧会の外にあった宗教的文化との対話によって成り立っていました。ドイツ・コラールは当時の教会で公認されてない、中世を通じて民衆のなかで歌い継がれた種々雑多な宗教歌に根を下ろしています。
 教会から公認されなかった宗教歌の多くは今では民謡といわれますが、最初は修道僧や騎士たちによって13世紀頃から歌われ、それが次第に都市の文化として根付いたものでした。ルターの時代には、職人の親方たちによるマイスター・ジンガーの歌会や、シュッツェン(ひよっ子)と呼ばれる子供たちが街角で喜捨を受けながら歌う姿が見られました。ルターも学生だった頃に宗教歌を唄って喜捨を求めることをしたそうです。
 コラールの代表的な形式にバール形式(Bar form)と呼ばれるものがあります。これは13世紀のミンネジンガー(騎士道的な恋愛詩を歌った人々)が使った定型詩ですが、ルターの時代にはマイスタージンガーが広く歌っていました。これをドイツの宗教改革者たちは修道院の聖務日課で行われるような応答形式の讃美歌に整えたのです。(A(主題:聖書の言葉)A'(主題:繰り返し)B(信仰的な応答))この信仰問答的なレパートリーは興世を極め、16世紀中でも有名無名の詩人が万を超えるコラールの詩を提供したとされます。



◆ラヴ・ソングを宗教歌に
 よく言われることですが、ルターは聖歌以外にも俗謡を宗教歌に塗り替えて会衆に歌わせたように言われます。実際は当時の娯楽を飲み尽くすほどにコラールが盛況だったことを示しています。当時はビールも栄養ドリンクのように飲まれた時代ですから、酒場で歌われる猥雑な歌も民衆には馴染みのものでした。踊りに欠かせない街に出入りできる音楽士の数は、異教的だという理由で制限されてました。そういう民衆が説教を通じて自らの救いを信じ、こぞってコラールを歌ったのです。ルターが1524年に出した「エルフルト提要」は家庭用の讃美歌集でした。カルヴァンの詩篇歌も農民の娯楽を一変させたと言われます。現在の私たちが歌謡番組を見るかわりに、讃美歌を歌うということが考えられるでしょうか? 実際に宗教改革者はそのように考えていたようなのです。
 では中世から引き継いだ歌唱方法はどうだったのでしょうか? これが難しいところで、14世紀のアルス・ノヴァという音楽理論書によって、記譜法は現在のもののようにリズムを正確に記す決まり事(定量記譜法)ができました。にも関わらず、実際には慣習的にリズム形を省略された記譜法も残っていたようなのです。少なくとも修道院などで歌われていた聖歌は、定量記譜法以前の楽譜を使っていたことは確かです。ルターはコラールを作る際に、宮廷で用いる言い回しや新しい技法を用いずに民衆が歌いやすい平易な言葉で作るように留意したそうです。その平易な言葉に合った旋律は、等価のリズムに置き換えることだったのか、もしくは過去の記譜法そのもので表現されたのか、という疑問も残ります。定量記譜法ができる前の音楽の演奏については、いくつか自由な配慮が許されていて、最近ではロンドーとかヴィルレーという3拍子系の舞曲に合わせて歌われることが多いです。例えば讃美歌21でいうと37番や247番のようなものです。ではルターのコラールはどうなのでしょうか?

 例としてルターの詩篇130(讃美歌21では160番)を3拍子のリズムに置き換えると以下のようになります。(♪MIDIファイル♪)今までゴツゴツした旋律だと云われていたルターのメロディが、実は非常に滑らかで美しい響きをもっていたことが理解できると思います。当時のイタリアやフランドルの作曲家に匹敵するメロディです。

 


 同じように有名な詩篇46を使ったコラール(同 377番)を聴いてみましょう。(♪MIDIファイル♪)これも岩のように硬い好戦的なイメージというより、クリスマスに歌われるIn dulce Jubiloのような喜びに満ちた調べに聞こえると思います。(MIDIの竪琴に似た響きも味わってください)
 

 以上は13〜15世紀における歌謡形式をもとに想像で描いたものですが、ぶっきらぼうと思われているドイツ・コラールのメロディがとても親しみやすい要素を持っていたことの一端に触れられると思います。逆にP.ゲルハルトの受難コラールは、元のH.L.ハスラー作のメロディを等価音符に書き換えています。キルヒェン・リートのはしりになったP.ニコライの生き生きとしたリズム感はそのままのほうが良いようです。この辺りの17世紀には定着する会衆讃美のリズム感を巡る正統派と敬虔派の綱引きは、ドイツ・コラールの方向性に当初から複数のものがあったことも示唆しているように感じられます。あるいは等価音符に書き換えることが教会的なルールであるという解釈も成り立つかもしれません。




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