讃美と会衆 ジュネーヴ詩篇歌を巡る16世紀の宗教文化 | |
●中世文化との結びつき 会衆讃美を取り上げる場合、中世ヨーロッパの巷に宗教歌が溢れていた情況を思い浮かべることは興味深いことである。そして何が「会衆」の座を占めていたかを考えてみると、当時の文化状況のうちに留まって観察する必要がある。 一般に中世の宗教歌には騎士道に由来するレトリックが充満していて、ひとつひとつの語彙を味わうには当時の恋愛文学を引用しなければならないほどである。今では語彙の失われたレトリックも多く、単純にそれが肯定的なのかさえ不明なものも少なくない。逆に言えば宮廷文化は騎士道以来、愛欲の表現を宗教詩のかたちでひかえめに表現するのが美徳として確立し、そういう宮廷趣味はギリシア神話に名を変えてバロック時代まで続いた。もちろんこうした愛欲の情念そのものが第一要因として宗教文学の一角を担っていたと考えるよりは、むしろ宗教の衣を着ることで一定の慎ましい様相を得られたという捉え方も可能である。トルバドゥールの詩では恋愛が聖書的な筋を通して高貴な規範を得るという色合いが濃い。中世は現在と比べると、現世と来世の営みの距離が狭かったと考えても差し支えない。ダンテの神曲、天国篇でダンテがベアトリーチェと再開する場面が最も象徴的である。一方そうしたレトリックで慎ましいマナーを得ない民衆は、常日頃から7つの大罪や煉獄思想にまさしく取り憑かれていた。これらは福音書の喩え話と比較するならば、貧者ラザロの現世と来世での生活との比較で一層際立っている。こうした激しい生き様の違いをよそに、宗教的に空虚なレトリックに満たされた文化が爛熟しきって、教会の上層にいたるまで信仰が全く言葉遊びの域に入ったときが16世紀初頭の宗教文化といえる。 そうした極度に世俗化したスコラ主義に対抗したのが、カルヴァンの理想とした詩篇歌の制作だったと考えられる。カルヴァンが「聖書の言葉で」と言った場合、宗教歌(=恋愛詩)で培ったレトリックを用いないという意味に取ることもできる。ルターは説教においてさえ、文化的情況のレトリックを逆用する傾向があったが、煉獄思想に取り憑かれていた民衆に福音による解放を呼びかける点では有益な点もあった。これにはルター自身が体験した救いの道筋と深く関わっているように思われる。ルター自身、煉獄思想に最も取り憑かれていた人間だったからである。カルヴァンはむしろそれらを「悪しき言葉」と断じて、できる限り文化的情況から手を切る道を選んだのである。 しかしジュネーヴ詩篇歌のモデルになった音楽文化については様々な議論がある。当時の身分制度のなかで宮廷人と庶民が同じ音楽を歌い合わせるというのは未曾有の出来事であり、会衆という礼拝奉仕の座を礼拝式文のなかに留める努力がいかに実験的なことだったか想像に難くない。ただ人文主義者たちの活躍の場であった宮廷で好まれた韻律詩と旋律の繋がりには、当時のペトラルカ主義とそれよりさらに時代の下るトルヴェール芸術と密接に繋がっていると考えて良いように思う。しかしよく言われるジュネーヴ詩篇歌の世俗的な一面は、中世音楽の聖俗の区別と比較すれば、トルヴェール芸術が盛んだった13世紀でさえ創作歌曲において恋愛歌も宗教歌も大きな違いが見出されないのが実状である。(「賛歌(イムヌス)は…カントゥス・コロナトゥス(Cantus Coronatus:コンクールで優勝した歌?)の作法によっているからである」:グロケイオ「音楽論」) 一説には10〜11世紀にアキテーヌ地方でも盛んだったトロープス(tropus:キリエ唱のメリスマを注釈のシラブルで埋めた歌唱)の創作からトルバドゥール芸術が発展した(trobar, trouverを中世ラテン語のtropare=「tropusを作る」の変形とみる)という意見もあり、このことからトルヴェール芸術が古代キリスト教の聖歌の伝統と結び付いているという捉え方も可能である。トロープス自体は8世紀頃からラテン聖歌の技法にもみられ、13世紀では世俗曲と聖歌の歌い方の区別はそれほど顕著ではなかったようである。(「キリエは…カントゥス・コロナトゥスと同じように全くロンガで歌われる」:グロケイオ) 一方でアテキーヌ地方は紀元前からローマ属州として存続し、中世を通じてローマ法の影響の浸透した成文法が行われ封建社会の整備が遅れたと言われる。つまり十字軍遠征の影響を受ける以前のヘレニズム文化伝承から生まれたロマネスク時代の諸芸術のスタイルが温存された地域とも考えられる。ロマネスク美術の単純で素朴な造形は直接的にシリアやヘレニズムの図像を元にしているという。(エミール・マール「ロマネスクの図像学」) ジュネーヴ詩篇歌の時代に聖歌の伝承がどれほど類別できたかはほとんど判らないが、メロディからゴシック的装飾を取り除いてシラブルを明瞭に響かせる方法は、トルヴェールたちが受け継いだロマネスク芸術に根を置いているように思える。 ルネサンスの人文主義者が古代文化を思い浮かべるとき、ダンテやペトラルカの時代がアラブ経由で見出した古典主義に範を求め、これらの人々と交流のあったトルバドゥール芸術における詩と旋律との結びつきに至るというのは十分考え得ることである。最初にカルヴァンに協力して詩篇歌を作成したC.マロは、パリの宮廷詩人としてフランス語のソネットを書いたパイオニアであったし、詩文の作成にあたって様々なレトリックにも習熟していた(薔薇物語のパロディも作っている)。にもかかわらずマロは中世騎士道における恋愛からマリア賛歌に至るモチーフは、恋愛詩から詩篇歌への回心と読替えられ、自身の福音主義的な理想の世界を描いている。(「フランスの貴婦人たちへ」詩篇の序文) そこでマロは、世俗的な恋愛歌を好む貴婦人に対し聖なる愛の歌を示そうと詩篇翻訳の動機を述べ、農民や職人までが詩篇を口ずさむ姿をキリスト支配の黄金時代の到来のしるしとしている。しかしマロは自身の韻律詩篇に「二重の喪」という恋愛歌のメロディを添えるようにコメントしていることからも、当時の人文主義者たちの詩と旋律の高貴な結びつきの具体的なイメージは、聖俗の区分けなく12〜13世紀以来の宮廷文化から派生しており、ルネサンスの宮廷文化においてもロマンチックなヴェールに覆われながらそれは保持されていたものと考えられる。 ●宗教改革での詩篇歌の意義 以上の情況だけでもジュネーヴ詩篇歌の語法は十分に文化的情況の渦中にあったわけだが、もうひとつ投げ掛けてくる問題性は、現在の私たちがカルヴァンの描いた教会音楽の理想型をジュネーヴ詩篇歌に求めすぎて、16世紀の文化的情況に新しい宗教的なレトリックを被せる可能性も否定できないことである。これにはむしろカルヴァンができるだけ当時の文化的情況におもねない方法を選ぼうとしたとき、まず歌われる歌詞の問題から入り、それに相応しい旋律が付くことを望んだことが伺える。(ジュネーヴ詩篇歌1543年版の序文)そこでの「慎重で厳粛に」(同序文中の聖オーガスチンの引用)選ばれた旋律という意味は、出版された歌集のメロディを完全なものとしてではなく、むしろ場合によっては変更や差し替えを期待する旨も添えられている。これは多くの人が読みとろうとする美学的な問題ではなく、むしろ牧会の上で有益と思われることの見解を述べているに過ぎないように思われる。つまりジュネーヴ詩篇歌の改革の起点と方向性は、聖歌に限らず全ての歌唱芸術そのものの性格から始まっているといえる。カルヴァンは教会における讃美歌唱を否定しないかわりに、歌う行為そのものが神に立ち帰るための改革の起点と方向性を与えたと考えるべきである。 ジュネーヴ詩篇歌の音楽的美質と起源についての探求は常に謎めいているが、教会旋法に付随するスコラ的なレトリックについて詩篇歌の作曲家がコメントを残していないのは、そのレトリックを美学に取り入れるだけでもカトリック的という嫌疑を掛けられることを避けた結果かもしれない。そしてスコラのレトリックに倣い「厳粛」という意味がそのままドリア調を指すと主張するのは、カルヴァンにはあり得ないことである。その意味でも、直感的な音楽美学の観点からジュネーヴ詩篇歌の教会的役割を抽出するには、それ自体が無意味なレトリックに依存する結果をもたらす可能性を十分に秘めている。そこで、なぜそもそも韻律詩篇で書かれなければならなかったのか、カルヴァンの牧会的指針との兼ね合いを十分に検討する必要がある。そのためにマロという人物のもつ文化的背景をスケッチし、ルターやブツァー、ツヴィングリの会衆讃美に対する方法論と比較して、当時における相対的な価値観を見出す必要がある。 宗教改革の生み出した文化には、カウンター・カルチャーとしての側面と、より伝統的、保守的な側面とがある。それらの狭間をまず当事者のレトリックのなかで解釈しなければならない。そのため文化的な行動様式に対抗した牧会的な配慮によって引き起こされる会衆の理解は、当然のごとくそのレトリックを抽出した源文化の行動様式によって明らかになると考えるべきである。というのは、中世ヨーロッパとは徹底的に身分相応の作法を見せびらかす文化だったからである。実際に乞食や病人にいたるまでも、そういう価値観には事欠かなかった。宗教改革者はそうした行動様式から自由人として振る舞う立場をもっていたが、16世紀の会衆は中世以来の行動様式から自由ではなかった。宗教改革の口火を切った煉獄思想と免罪符の問題は、その即物的な判りやすさにあったという逆説も成り立つ。このような行動様式とレトリックとの直接的な結びつきが、カルヴァンの常に厳しく問い詰めてきた、悪しき習慣と対向した牧会的な配慮の起点として見いだされるわけである。 逆に行動様式と結び付かないレトリックは、16世紀の会衆の聴くところとはならなかったかもしれない。改革派とルター派の違いは、誤解を織り交ぜて言うと、前者が行動様式を徹底的に改めていこうとしたのに対し、後者が行動様式に肯定的な立場で福音を宣べることによっているかもしれない。そのため詩篇歌の牧会的な効果については、歌唱芸術に関わる様々な習慣による行動様式を起点としながら、改革の方向性を示すことが重要だと思われるわけである。 中世歌謡におけるレトリックと行動様式の結びつきとは、例えば13世紀の音楽家グロケイオが「カントゥス・コロナトゥスで歌われる恋愛は、人々に高貴な心を呼び起こさせる」ということを、恋愛に騎士道的な価値観を促し貴人としての振るまいを思い起こさせる、という意味に読み替えることである。この高貴な思いというのは、十字軍を贖罪行為とした遠征参加の呼びかけに応じて流入した文化と折り重なって、アラブ吟遊詩人の芸能をまねたことから起きているように思われる。(当時のオリエント趣味の流行は聖職者もダマスク織の生地を好んで衣裳に取り入れているということにも広がっている) そこでは、われらの貴婦人(Notre Dame) "MARIA"の5文字を巡る瞑想と思慕について歌われる、という流儀も見いだされる。(シャンパーニュ伯チボーの歌) つまり中世ヨーロッパの理解の範疇では、高貴という作法に基づくならば、恋愛を宗教的なレトリックで言い表すことは、ひとつ垣根の隣の庭という感覚なのである。このことからも、中世の行動様式と精神性に文字通り「頭の先まで」漬かっていた16世紀の会衆にとって、カルヴァンが引き合いに出した会衆讃美における「慎重で厳粛に」とはどういう行動様式なのかと問えば、ただ民衆的、俗世間的という観念に限らず、中世を通じて教会に流れ込んだ世俗文化全般に対するカンター・カルチャーを意味しているように思える。 この「慎重で厳粛に」という課題は、究極的にはサクラメントにおける自己吟味とキリスト讃美に結び付けられるものと思われるが、実際問題として持続性を持たせる牧会的な配慮と解決方法は、説教によって行うべきなのか、会衆讃美で行うべきなのか、という問題が浮び上がる。これを改革派礼拝の歴史のなかで考察するために、チューリッヒとシュトラスブルクの宗教改革との比較のなかで考えることが有用である。現在の改革派教会でのリタージカル運動をもとに視点を与えれば、現在のフリー・チャーチにおける讃美と説教の関係は、会衆讃美における自発的応答という面でシュトラスブルクの改革者が最終的に支持したルター派の影響が強いし、礼拝形式の上では説教を中心としたチューリッヒの方法が支配的と考えられる。このように宗教改革全般のうちから有用なエッセンスだけを抜き出した情況であるが、ただカルヴァンの礼拝式文のなかでは、少なくとも両者の一致した奉仕と神の御言葉の共有のなかで礼拝が行われるべきだと考えていたように思う。礼拝では全ての人々が天上におけるサクラメントを取り囲むために相応しい訓練を行うことが必要最低限に盛り込まれていた。そこでは、説教において神の言葉に「聴く」会衆は、詩篇歌において自らも神の言葉を「語る」のである。この礼拝奉仕の協働作業において、詩篇歌は本来の牧会的な意味が見いだされるのだとも考えられる。 ただ詩篇歌における改革の起点は、現世的な人間が全ての局面において神に立ち帰るための視座を与える一部である。これは19世紀の改革派神学者が夢みたような全ての文化にバプティスマを授けるという意味において、現世における職業の現状を正確に(肯定的に)規定し、その起点から神の御言葉による改革の道に進むという、改革派教会の現世的な面の伝統に結び付いている。 ●現代のおけるジュネーヴ詩篇歌の意義 現代におけるジュネーヴ詩篇歌の意義は、現在の世俗文化における改革の起点の想定と、詩篇歌がカウンター・カルチャーとして改革の方向に向いているかが課題としてあげられよう。少なくともジュネーヴの文化的情況を神聖視し、ルネサンス時代の精神性(=生活習慣)に戻ることが本意ではないことを確認するべきである。 まずジュネーヴ詩篇歌に宿っている13世紀にまで遡る行動様式が、現代の会衆にどれだけ宗教改革の方向性を導きだすのだろうか? 少なくとも16世紀のジュネーヴにおいてはあらゆる娯楽の類が詩篇歌を軸に改革されようとしていた。カルヴァンが娯楽について語るのは、ある意味不思議な感じもしないではないが、音楽の効用について人の血気を盛んにさせる旨を述べている。その娯楽に神の御言葉が濯がれるならば、というのが詩篇歌における改革の意義でる。つまり詩篇歌は礼拝改革と結び付きながら、生活文化一般にまでおよぶ傾向をもっていたと考えられる。このことは後の世紀において、ピューリタン思想においてはネガティブに扱われ、中欧での教育改革ではコメニウスやペスタロッチのようにポジティブに扱われている。16世紀において改革派信徒が恋愛歌を詩篇歌に取り入れたというカトリック側の批判に対し、「カトリックの家からは恋愛歌や宴会音楽が流れ、改革派の家からは敬虔な詩篇歌が流れた」と比喩されたとおりである。このように会衆讃美と行動様式の繋がりにこだわることは、牧会の効果として決して無意味なことではなかったのである。 カウンター・カルチャーとして当時のレトリックを抽出するならば、ひとつは世の支配を神の支配に改革するというレトリックを見いだすこともできよう。つまり16世紀においては、世の支配は宮廷の恋愛歌であって、神の支配は教会での詩篇歌という対比である。(マロによる詩篇の序文) これを現代に押し当ててみるならば、コンピュータ社会や機械文明がもたらす超人的なリズムに対する人間工学的に自然な歌唱法であったり、あるいはその中から人間の讃美に主体性を取り戻すことも考えられよう。つまり思想(ソフトウェア)が存在すれば自動的に救済の出来事が運んでいくのではなく、人間が自ら讃美を口にすること自体に礼拝奉仕の意義を見いだすのである。また現代では人の思い悩みということが科学の力を借りて非現実的な状況を生み出すこともあり、詩篇の言葉の客観性が教会的な人間回復の手段になるかもしれない。自分の感情や理解を神の前に披露するのではなく、神の御心を告白するという訓練が情緒的にも行われることが、現代の会衆には必要なのだと思う。現在の情況ではスロー・ライフも交えた環境問題や経済問題などの別のカウンター・カルチャーの物差しが必要になるかもしれない。こうして詩篇歌を巡る会衆の礼拝奉仕の座は、生活の座の改革に根差して行われるのが本筋なのだと考えられる。 |
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