ここではアジア文化を素材としてキリスト教礼拝をデザインしております。もしアジア的な情緒を重んじて礼拝するとすれば、こんな感じでは…という私ながらのイメージです。私が頭を悩ませている幻は、メシアニズムに基づくアジア的祭儀共同体を造ることなのです。

 単純に異なるモノを拝む(異教)のはダメで、拝みカタの異なる(異邦)のはヨイ。そうしたグレーゾーンを探りつつ礼拝形式を展開しています。白黒のはっきりしないあいまいで混沌とした世界を舞台として、ヤハウェの生きた御言葉の発現する場所、恵みと慈しみが讃美される場所を整えます。
 それは聖霊の創造の御業が、混沌としたアニミズムの魂を揺り動かし、ヤハウェの栄光が勝利を遂げるドラマでもあります。
 それは単純な罪人の滅亡ではなく、キリストの十字架の死によって裁かれる罪の死と解放の劇でもあります。

 日本には魑魅魍魎(ちみもうりょう:山川の精霊)に彩られたアニミズムの縁起がわんさかございます。魑魅魍魎の神々はあるときは人々に幸福をもたらし、あるときは災難をもたらす荒ぶる者として畏れられます。神々を言祝ぐ唄や踊りは、いにしえの魑魅魍魎をなだめるために人々が捧げたものでした。アジアの祭儀には唄や踊りに託された地域ごとの神々の名がまだまだ豊かに残っておるようです。
 一方で、このような精霊信仰を基調とするアニミズムのほとんどは、自分に都合のいい神を選ぶことに陥りやすいといえます。聖書が指摘する偶像礼拝は、言い換えれば自己崇拝の宗教観の危険性を指摘しているのですが、偶像がそれを拝む人の精神そのものであるということも肯ける次第です。アニミズムの精神の寓意として意匠を施された様々な儀礼や神話は、人間の姿そのものと言ってもいいように思うのです。
 そのため、神々に捧げられる唄や踊りは、人々の心をも和ます芸能としても伝承されております。日本の例では、地獄語りの亡霊は踊り念仏で亡霊済度を遂げるはずが、近世の歌舞伎踊りで酒盛りと連舞でこの世の未練を遂げるように変化し、さらに花笠踊や住吉踊は願人坊主(浮かれ坊主、遊び坊主)による大道芸が影響していると言われます。
 このように純粋な娯楽と思われる芸能も、もとは俗世間に広がる祭儀的風習の系脈をもっており、庶民文化の心底深くに流れているのかと思います。ただ祭儀と娯楽の間に生じた溝は、寓意の源となる縁起が解体したまま、寓意の意匠としての娯楽だけが取り残され芸能として彷徨っているようです。

 私はここで、庶民の娯楽である芸能や民謡にキリストの縁起を吹き込んだらどのようなことになるのか、と模索してます。このことでアジアの生活風土にメシア=人の子が出会い、人々と共に歩まれる様子を描いております。私の予想では、かつて娯楽が亡霊の未練を救済したように、再びキリストの縁起によって庶民の娯楽は祭儀的実体を取り戻すこともあるのではないかと思うのです。キリストにあっておおいに笑い泣くことで、罪に苦しむ人々が魂の息を吹き返すことを願っております。猿まねでキリスト教礼拝ができるかどうか、まずは試しに観て聴いてくださりませ。決して化け猫の見せ物小屋ではござりませぬ。


礼拝への手招き

ささ...
聴いてらっしゃい
観てらっしゃい!



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