●墨淡の日々 其の十
ここでは既に生産中止となって1年以上経って
現在は日本語版の製造さえもやめてしまったソニーの渾身作
日本で最初にして最後のモノクロ・ハイレゾ機
PEG-T400の愛しさについて静々と語ってみた。
10−1.2005年11月になってようやく知った事実 ソニーがとうとうクリエから撤退した…そう知ったのは2005年の暮れになってからだった。それほどまでに自分のパームについて関心が薄れていたというか、独立した携帯情報端末として面倒を掛けないで済むようになっていたというか、全てにおいて日常に溶け込んでいた、そういう感じである。 私が黒クリエに惹かれたのは実は高機能だからではない。パームらしいチープだが可愛らしい雰囲気に、日本語表示の充実が加わり、さらにメモリの増強ができたという点である。パームは自分自身の情報端末にするまでの過程が楽しいのだが、そういう手の掛かりようが面倒な人には向かない。気を長くして情報を掻き集め、自分の生活スタイルのなかに溶け込ましていくのが面白い。 Palm-OS機は他のコンピュータのようにOSそのものの操作に縛られるような感覚が少なく、むしろソフト上のGUIの設定でパームウェア制作者の意図が現われやすいように思う。いわば機能を限定したばかりに、画面に表情の出やすいコンピュータだった。画面に表情があるからこそ可愛いのである。実は私自身、女性用に適してると思われるデザイン性の高いソフトが好きである。RonDoとかCuteDBookとか、機能よりもデザインに惹かれて購入した。 黒クリエが発売された当時は、ソニーが提唱したカラー&ハイレゾへの移行期で、日本人のパームウェア制作者が率先してクリエのハイレゾ対応のソフト開発を進めた、いわば日本でのパーム熱が最も熱い時期でもあった。そこにソニーはそれまでとは方向性の違うPEG-T400を投入してきたのだ。PEG-T400はそれまでのクリエとは違う、Palm-OS機の歩んだ歴史のメモリアルな製品だったのだと思う。 その記念的な意図が半年で挫折した。巷でソニータイマーとして知られる、社内での過激で早急な開発競争のなかで、製品の信頼性が損なわれる事態にも遭遇した、最初の製品でもあったのだ。私の黒クリエも例外なくよくフリーズしたし、結局、内蔵メモリを交換したら何の不都合もなく安定したという経歴がある。 それでも黒クリエを使い続けたのは、やはり端末そのものの魅力が勝っているからに他ならない。ハイドロプレスを使ったと思われる極限までの深絞り一体成型のボディは、その薄さに比較した密度の高さがあって、日本での工業技術の美学を思わせる趣がある。アルミの銀色ボディとは違って、つや消しの黒はメカニカルな印象が和らいでいるという点にも惹かれる。ソニーは意外と黒色のシックなデザインを出し続けているのが面白い。きらびやかなAV機器の存在感よりも生活感を大切にする気風は残っているのだ。 結局サポートも無いまま、その後どうなってるかというと、液晶の表示が薄くなったり、パッドがずれやすくなったり、バッテリーが落ち始めているということはあっても、十分に使える機能は維持している。もともとネットから隔離されてる情報端末なので、一度使い方が安定してしまうと周りの情報とは関係なく自分の日常に付き添っていく。関数電卓として使い、予定を書込み、辞書を調べ、聖書を読む。単純なことだが手元に無いと困るもの。それが電子手帳たる由縁でもある。 |
![]() ハイレゾ機の第一印象 ![]() RonDo 回る回るよクリエは回る ![]() CuteDBook 愛らしいシールがいっぱい |
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10−2.手帳だろ手帳!! モノクロ画面というと地味な感触をもつ人も少なくないと思う。実際とても地味だ。初めて観る人も細かい文字が連綿と並んでいるのをみて「ふ〜ん」の一言で去っていく。しかしデータ端末としてみたモノクロ・デバイスは、ありのままのリアルなデータ表示ではなく、一旦は情報を単純化して表示する必要と常に向かい合う。それだけ記号化され洗練された表示内容でないと、GUIの機能性が保持できないのである。洗練には知識がいる。その意味では、モノクロデバイスの表示はイメージを膨らませる要素がある。時計を観て何時かを知ると、その時間の風景が自然に浮かぶのと同じである。 WindowsやMacのソフトウェアが電脳でのリアリティの実現のために多機能を標榜してきたのとは反対に、Palmのそれは操作の単純さという一言に収斂していたように思う。つまり必要な情報にアクセスするために最小限のアクションで済ませるという美学があった。この最小限というスタンスが洗練の内実であり、データをアクティブに持ち歩くというコンピュータの新しいスタイルを生みだしたように思う。つまり現実と見まがうほどにリアリティの詰まったデータを「造る」のではなく、現実に起きていることを「知る」ためのデバイスなのである。 操作の単純さは機能の限界に比べて意外に重要である。ネット・テレビと通常のテレビの違いは、ネット・テレビが混み入った番組表を必ず見てから番組を選択するのに対し、テレビはスイッチを入れチャンネルを回すだけである。こういう単一機能だけに特化したデバイスと同等に扱えるソフトウェアを製作するのはとても難しい。好みの情報を得るまで1日を費やすならば、そのソフトはデバイスもろとも再び触ってもらうことも適わないだろう。機能美という愉悦はユーザーの極めて冷酷な仕打ちに耐え抜いて研磨される宝石のようなものである。そのデバイスとしての磨き具合をどう考えるかは、実はデバイスのもつ機能的限界を誰もが自然なこととして受け止めさせることに他ならない。それがPalm流のユニークさだったような気がする。 話を手帳に戻すと、それは携帯性と操作性に尽きる。そしてアイキャッチで素速く内容が認識できるように整理されてなければならない。スクリーンに情報が過多になると、そこで作業は一旦止まってしまう。その表示内容の洗練にいたる機能的限界をモノクロ画面ということになるのではないだろうか。私はカラー表示の青いタブを見る毎に、メイン画面よりそっちに目が行ってしまう。次の操作を促す信号がアイキャッチで目に入るため、内容を見る前にちょっとした脅迫観念に駆られるのだ。そうしたちょっとした過剰な情報がデバイスの操作性を左右する。実に繊細で洗練された感覚が必要なのだと思う。 |