淡の日々 其の九

ここでは既に生産中止となって1年以上経った
日本で最初にして最後のモノクロ・ハイレゾ機
PEG-T400の愛しさについてウハウハと語ってみた。



9−1.暑い夏にご用心

 夏に御用心といって「ちゅ〜ちゅ〜チュチュ♪」ちうわけじゃない。バッテラ、否バッテリーのことである。猛暑で知られたこの夏、バッテリーを3度干上がらせてしまった。もともと予定なんてほとんど入れないので良かったのだが、さぁ、電源入れよう…「?」…(^o*)\バキッ。という具合である。(なんのコッチャ)

 こういうときにメモリースティックは本当に助かる。最初の頃、フリーズすることで有名だったT400を乗りこなすまでは、1週間に1度はバックアップを取っていた。それも2〜3パターンは当たり前で、動作確認の状態で「…」ということもあったので、新しいアプリを入れる直前には必ず習慣としてバックアップしていた。それが動作の安定するに従い1ヶ月、2ヶ月と疎らに。その気の緩んだ頃のバッテリー切れ3連ちゃんだったわけである。

 しかしどういうわけか? 全く怒りというものが込み上げてこない。普通なら「クソッ、こんなPDA!」「2度と使ってやるもんか!」という気になるかもしれない。しかしどう考えてもT400にはそういう気が起こらなかった。今更新しいOSに合わせてアプリを入れ替える気が起こらないのもひとつの要因ではある。実はT400がフリーズしないで使いこなせるまで、1年半くらい掛かって今の状態になっている。これは妙なことではあるが、それくらい自分のPDAはマイペースの象徴のようなもので、日々起こる新しい事柄を自分のペースでまとめる道具でもある。

 裏を返せば黒クリエとも蜜月をとうに超えて倦怠期に突入してたわけだが、なんだか心地よい日溜まり感覚の今日この頃である。





StaBu的負け方(鬱


そういうときはツボ圧し
(コレ肩こりに効くやつ)

9−2.「真」四角い画面

 160×160pixという数字がどこから出てきたか知らないが、Palm OSの最初のスペックである。8pix文字が20×20=400文字並ぶと考えれば、何と無しに納得のいく数字ではある。しかして文字以外にもGUIが階層的に入れ替わり、スタイラスで操作しながらキビキビ動くミニ・コンピューターは、驚くほどキュートで経済的なシロモノだった。単4電池×2本で3週間は動いたのだから、そこそこのソフトも動かせて消費電力も掛かるコンピューターの世界では他を圧していた。そして極めつけは「ZEN of Palm」というキャッチ・コピーである。機能はパーフェクトでなくても、十分であればいいじゃないか(by みつを)…いち早くエコ・ライフを満喫できた哲学的な電子機器でもあった。

 で、最近つとに画面のQVGA化(ようするにテレビ画面対応)が流行りである。そもそもパームの真四角はVGA画面をコンパクトに収めようという意志の現われのようにも見える。√2倍の情報をひとつの画面で表示させるには工夫がいる。その工夫を強く意識させることによって生まれたものは、意外に大きいように感じるのである。

 思うにPDAのパーソナル・データは、そもそも自分を主役にした物語の構築に意味があったのではないだろうか。かつてのパーム・サイトの乱立状態も、自分の日常に潜むパーム的な物語に気付いた人たちの本音が語られていたように思う。画面を四角く区切り付箋のように一言二言書き留める作業は、単なる備忘録ではなくスクラップされた日常の欠片であり、それが星座のように物語を造り出すまでに日常にじっと眼を止めなければならない。改めてこの規格について思索してみたいものである。




Visorでござる



元画像

9−3.様々な顔

 パームには他のコンピュータにはない「顔」があった。それは小さな8MBメモリのなかに詰め込んだ持ち主の思いというべきものだったように思う。持ってる筐体は似通ったモノながら、使い方にバリエーションがあって、個人情報管理、日記帳、ゲーム機、などなど、その人の日常と一緒に歩むことで個性に彩られた使い方が現出された。不思議なことに、Palm-OSは他のOSと比較すると個性的だが、それよりも持ち主の個性のほうが際立っているような面がある。パームは所有するだけで勲章のように光るアイテムではなく、小さな舞台で繰り広げられるドラマの確認が楽しいデバイスである。

 そのような顔も、実は複雑な使いこなしと関連しているように思うときがある。パームを知らない人に「ホットシンク」という言葉はほとんど理解できない。クリックの代わりにタップ、キーボードの代わりにグラフィティなど、パソコンのインターフェースの代替物として説明されることも多い。理解されやすいかわりに、パソコンの代替物という誤解も一緒について回る。外ではパーム、家ではパソコン、という組合せは、96kbpsというブロードバンド以前のプチ情報社会の出来事だったかもしれない。

 今こそネット上でのホットシンクなど、セキュアな方法と一緒に確立できれば面白いと思う一方で、プチ情報社会というレトロな雰囲気を楽しむことも面白いと思う。パームは生まれた当初から人間の手のうちに収まることを想定した古典的なデバイスだったっように思う所存である。




パームの顔(妄想)



これも個性のうち?



9−4.筋書きのないドラマ

 Palm-OS機器には携帯電話を兼ねたTreoのようなものもあるが、普通は外部情報とコミュニケーションを取る手段の希薄なPIM機能が主体になる。いわば外の情報によって行動するのではなく、自分で行動をコントロールする側に立つのがPDAの使い方になると思う。世の中のトレンドを追い回すのはそれなりに楽しいことだが、なんとなく踊らされてると感じるものも少なくない。それは時間についても同じことで、社会人に限らず自分だけの時間を持つことは最近贅沢の一種だと思うようになってきた。コミュニケータとしての携帯電話には、そういう自分だけの時間を持つための機能はただひとつ電源を切る以外にないが、アドバイザとしての電子手帳にはむしろ豊富に見出せるように思う。空いてる時間は一目瞭然だし、そのときに何をしたいかは予め自分で決めれば良い。予定表とはそういうもの。

 一方、なんとなく携帯電話には暇になったら何をすれば良いか?ということに答え過ぎるように思うときがある。そういえば予め答えの準備されていない仕事で自分なりにストーリーを展開して説明することができない人は結構多い。それも結構優秀だと思える人に限って、事前の筋立てを省略して個々の作業に着手してしまうため、既成事実だけを並べるだけで結論の出ないレポートを平気で出してしまう人がいる。もちろんこれはマナーの問題なのだけれど、結論を導き出すのに必要なリソースを提供するのが目的なのに、自分の行った苦労話を延々と聞かされているような報告書をドンと出されて怒る気も出ないときがある。筋書きのないドラマにも、人が聞いて面白いと思えるストーリーが秘められているものである。

 そういう意味も含めて、最近なんとなくストーリーの組み立てを拒否することで、便利さをアピールするデジタル・グッズの増えてきているのが気になるのである。ソニーの家電にもそういうキライはあるが、私個人はクリエらしい機能を全くといっていいほど使っていない。でもどういうわけかT400は使い続けている。多分、ソニーとしては失敗作で、機能を絞ったところが私好みだったのだと思う。普段は皮ケースに入れているので気付かないが、時折ケースから出し、抜き身の太刀のように凝縮されたT400のフォルムを拝むたびに、機能を絞ることは研ぎ澄ますことだと感じる。

 
 

キズが付きやすいので
皮ケース



抜き身の太刀?





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