会衆讃美の世界
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教育と芸能

 日本における近代教育はその前進として寺子屋がありましたが、次第に国民教育の体裁へと変わっていきます。しかし都会と農村では教育と職能の考え方に開きがあり、当時の輸出品で有力な生糸の生産に従事した女工さんなどは、農村部から直接奉公に出されるかたちでした。明治政府の小学校令(1986)では、貧民用の小学簡易科は3年、尋常小学校を4年、高等学校4年というものでした。なので農村部では基本的に3年の義務教育で働きに従事していったことになります。貧富の差を前提とした教育が廃止され統合されるのは1900年のことであり、一般的な6年制の小学校ができるのは1907年のことになります。尋常小学校唱歌が本格的に整備されるのもこれ以降のことになります。

 芸能といえば今でも流行歌や話芸で身を立てる人のことだと思い浮かべますが、明治期の音楽教育においても健全で尋常な子弟に相応しい歌の創出には時間が掛かりました。流行歌には大人の色恋沙汰が背景にあるので、子供の時分でそういうものに興味をもつのは不健全であると考えられたのです。昭和の初期においても、校内で流行歌を歌おうものなら、先生からひどく怒られるというのが通例です。そのような教育環境に相応しいと思われた初期の唱歌のスタイルは、節は和洋折衷のヨナ抜き長調と呼ばれるもので、内容は花鳥風月を愛でる歌から五常五倫の儒教教訓を歌ったものなど、子供にしては難解な歌を唄わせていたようです。当時はわらべうたも卑俗なものとして教科書に載ることがなかったのです。やがて童話に題材を得た唱歌や大正期の雑誌「赤い鳥」の影響をうけ、童謡の流行が出てきました。


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