![]() |
||
ジュビリー・シンガーズ(南北戦争後2) アメリカの黒人奴隷が教会を形成するというのは1860年の南北戦争における奴隷解放以後のことであると思われます。それまでは黒人霊歌ということで伝承されてますが、メロディはアフリカのオリジナルな歌謡ではなく、植民地文化のなかで展開していったものでした。「揺れよ幌馬車」はピューリタンの歌謡を保守的に引き継いでいますし、「ジョシュアの戦い」では中米のクレオール歌謡が取り上げられています。実際に奴隷解放後の教会で歌われたのはイギリスのワッツ氏の讃美歌であり、黒人霊歌は奴隷時代を思い起こさせるものとしてそれほど誇りとされなかったようです。黒人霊歌が見直されたのはジュビリー・シンガーズと言われる四重唱コーラスで歌われてからです。これはゴスペル・カルテットとは違い女性を含む一般的な讃美歌と同じ合唱方法で歌われました。ジュビリー・シンガーズで先鞭を切ったのは、黒人のための大学として初めて建設されたFisk大学の生徒により結成されたグループで、1871年の全米演奏旅行から始まり翌年にはロンドン公演でコンサートを開くなど、非常に好評をもって迎えられたということです。その後バリトン歌手がエディンバラに留学しクラシックの歌唱法を黒人の学校で教えることに執着しています。1877年にジュビリー・シンガーズの歌集が出版されると、その中に含まれる黒人霊歌が全米に知られるようになりました。1920年代からサクリファイド派教会がブルージーな曲想を展開するまでの50年間は、ジュビリー・シンガーズのスタイルが流行ったということになります。 この他に奴隷解放以前の黒人音楽のスタイルとしてミンストレル・ショーがあります。ミンストレル・ショーは黒人の真似を白人が行うコミック・ショーの体裁をもっていますが、実際は貧しい白人層が黒人から芸事を習ってはじめたとも言われます。白人にも黒人同様にブルースがあり、やはり鉱山や炭坑などの労働者が身を持ち崩して放浪芸に身を委ねるケースが多かったようです。18世紀でさえ雷の研究で有名なフランクリンが子供の頃にフィドルを弾いて歌っていると「バラッド売りみたいな真似をするな!」と父親からひどく怒られたと回想しています。それほどまでにアメリカの大衆音楽のなかでも底辺のものであったものが、第一次世界大戦後の東欧系の移民によってカントリー音楽として息を吹き返すのでした。最近は19世紀初頭までの音楽をコロニアル・ミュージック(植民地音楽?)としてジャンル分けした演奏も出ています。楽器もキー無しの管楽器やフィドルを交えて懐かしい音調で演奏します。じきにフォーク&トラッドの枠組を超えて、19世紀に作曲された讃美歌の唱法に影響を与えるのではないかと思います。 黒人の教会ではブルース・シンガーが酒場を中心に活動するため、一切の関係を絶つようなことも伝統的に行われてきました。ブルース掛かった歌謡が入ってくるのは戦前のサクリファイド派教会によるゴスペル・ソングのレコーディングによって広まり、戦後の護民権運動によって一般の教会に受け入れられていったものです。それまでは南部の黒人家庭のなかで伝えられるローカルな歌唱法であったと思われ、黒人のアイデンティティを誇示するよりも蔑まれる状況だったと推察されます。面白いことにこの地域の音律は極端にペンタトニックで鋭角的な感触さえあり、それがアフリカ起源なのかピューリタンの伝統なのかは判りにくいところです。ジャズの世界ではキー(和声)よりもモード(旋法)を基準にしたアドリブがメソッドとして先鋭化される一方で、現在のブラック・コンテンポラリー歌手はバラードに微妙なミーントーンを加えることで都会的なニュアンスを持たせているといえます。ちなみにモードに基づく変奏は初期バロックにも観られるもので、ジャズやバラードは西洋音楽の近代化のルールをなぞるように理解されていることも伺えます。 [←PREVIOUS] |
||