会衆讃美の世界
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アメリカでの移民社会の歌謡



18世紀アメリカの小学校
年齢に関わらず一緒の教室で学ぶ
 アメリカへの英国民の移民は有名なピューリタンの人々によって行われますが、東海岸のそれと南部の開拓とは情況はまるで異なっていました。18世紀当時はアパラチア山脈より西側は未開拓の西部であり、移民達の間でも未確認の噂でしか情況の判らない地域でした。まずピューリタン社会を形成した北東部の地域では、娯楽という事柄がほとんどなく、日々の労働と日曜の礼拝に生真面目に従事してました。そして街の取り決めは教会の礼拝前の集会(タウン・ミーティング)で行う会衆制をとってました。子供の宗教教育には熱心で、17世紀において読み書きを教える教科書を持っていた点で、ヨーロッパのどの地域よりも先進的な教育方法をとっていました。

 歌っていた讃美歌は2,3の馴染みあるチューン(旋律)に複数の歌詞を当てはめたもの(チューン・ブック)が使われます。歌詞は詩篇がほとんどでしたが、他にピューリタンに特有の罪を痛む心情表現から、ときに陰鬱(gloomy)な歌詞を伴うことも多かったようです。当時の歌唱法は器楽の伴奏はなく、ライン・アウト唱法といって先導者が歌詞をリードするのを追って全員が歌う方法をとっていました。今でもフォーク・ソングで歌詞を聴衆に教える際に行う方法です。実際にこの時代の歌唱法をそのまま伝承する教派が残っていて、追分節のような小節を利かせた拍節感のない歌い方で延々とメロディを引き延ばすやり方です。同じ合唱方法はイギリスのウェールズ地方やスコットランドの北側に残っており、今でもサッカー場を揺るがすように歌う声が聴けます。元はアングロ・サクソン系やノルマン・フランス系とは異なる、ケルト系の人々の歌唱法であったと推測されます。北アイルランドのアルスター地方からアパラチア山麓に移住したスコッチ・アイリッシュ系の人々は、アメリカのルーツ・ミュージックのなかで大きな役割を演じるのですが、あるいはそういう特定の方法もあるように思います。

 ♪ピューリタン時代の歌唱:Guide Me O Thou Great Jehovah
  ケンタッキー州ブラッッケイのMount Olivet Regular Bptist Churchの歌唱。
  チューン・ブックを元に歌唱しているが地声を張り上げる独特の歌い方である。
  近代化の過程で18世紀前半にはこの歌唱法は悪い見本とされてきた。
  楽譜通りに、テンポを守って、人より目立とうとせず、というメソジスト運動の
  讃美歌唱の注意点をそのまま逆の形で実行していることが判る。
  アメリカではこうした超保守組がそのまま温存されている他、スコットランドの
  非国教系の自由教会のうちにこの歌唱法を伝える教会がある。
  ("The Gospel Ship" New World Record 80294-2)

 こういう事柄は音楽史の問題を通り抜けて、民族音楽の分野に帰するもので、会衆讃美の実体を知る上でも興味深いものです。17世紀初頭のオランダでも会衆讃美はシーソーのように乱れていたといい、18世紀アメリカの会衆讃美の現状を「身の毛もよだつような調子っぱずれな騒音」と一蹴して組織音階の教科書を書いた人も居ます。面白いことに17世紀末には宣教を初めていたルター派のコラールのように体系立った音階の音楽は、この地域ではあまり好まれなかったことです。歌と叫びの中間的な感覚でしょうか、そういう声の出し方が17世紀初頭から200年近く好まれ伝承されていたのです。

 初期の移民がピューリタンのなかでも分離派に属する人々であった反面、18世紀には様々な国の植民団や移民が訪れるようになります。ヨーロッパでは司教区の地域教会の一員として過ごしていた人々が、突如としてピューリタンの求める自己吟味による宗教的な自律性を求めるのは難しく、移民社会での価値観の多様化とのバランスが問題として浮き上がってきました。その一方で新天地での宗教生活を形作る信仰告白の方法として、ピューリタンの回心経験とそれに付随する文化的な習慣が用いられるようになりました。


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