![]() |
||
| シンバルや太鼓をもって 宗教改革の初期における楽器の扱いは、ミサで助任司祭の代わりを務めたオルガン(応唱する聖歌隊が多忙だったせい)はもとより、フルートやバグパイプ、リュートなどの身分の低いとされた楽器は踊りや酒宴を連想させるものでしたから、礼拝では排除される傾向にありました。いわば文化的には板挟みの情況にあったということでもあります。しかしそうした傾向も16世紀半ばにして人文主義の影響で変わりつつあり、音楽は青年の憂鬱を吹き払う健康的なものと受け取られるようになりました。そして音楽家の多くは会衆讃美のメロディーを主題にした器楽曲を多く書くことになります。リュートやリコーダーなど家庭で楽しむ楽器の他、パイプオルガンも複数の音色(ストップ)を有してコラール旋律と装飾音符とに分離する構造に変わっていきます。イギリスでは器楽演奏に対する抵抗感は少なかったようですが、ドイツでこうした流れを決定的にしたのはM.プレトリウス(1571‐1621)で、北ドイツのハンザ同盟都市を基点に体系的な演奏譜とミーントーンの実践で大きな影響をあたえました。楽器の構造の変化も礼拝での使用における重要な役割だったのです。
そうしたなかで都市部では中産市民階級の台頭に特徴付けられ、音楽の趣味にルネサンス的な萌芽が出てきます。彼らは第3の身分として貴族と農民の間に派生してきた商人たちで、後期ルネサンスにおける文化・経済の原動力になったのでした。これは商業ルートが絶対王政によって独占管理されるバロック期に入ることによって終焉を迎えるものです。最初は15世紀のうちに北イタリアの公国や自由都市で雇われたフランドル出身の作曲家によって盛期ルネサンスの流れが形成されますが、16世紀前半あたりからは音楽教師と作曲家を兼ねたイタリア出身の楽士がヨーロッパ中を駆け巡ることになります。この音楽教師は貴族や商人の館に出入りし子弟に音楽教育を施すのが日常であったようです。いわばアマチュア音楽家が情操教育の一環として大変多く生まれたことになります。そして売れっ子の演奏家がアレンジを施した楽譜はヨーロッパ中で売れるという現象を生み出しました。これはそれまでの宮廷楽士や放浪楽士といった身分制の枠から外れた自由学芸として家庭音楽が嗜好されたことを示します。 [NEXT→] |
||