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| 礼拝での奉仕の座 宗教改革での会衆讃美を語る際には、それ以前の平信徒の教会での役割について考えなければなりません。中世における教会への奉仕の座は、教会への帰依を第一とする点で領主と農民の関係にほぼ相当します。実際に教会が領主であった司教領もありましたが、教会財政を支える手段として、後に問題となった免罪符以外にも、托鉢僧による喜捨から聖職禄(ミサを行うお布施)の寄進まで多種多様な方法がありました。しかし礼拝でリタージ(典礼文)を唱える権利をもつ者は聖職者に限定され、平信徒は礼拝に参列することでミサの恩恵に与るという立場に終止していました。 このような封建社会の枠組みで捉えた教会への帰依とは別に、平信徒の信心は必ずしも礼拝そのものに直結しておらず、そのことが平信徒による教会の内外での非常に多数の信心会や兄弟団の形成に向かわせます。いわばプチ修道会のようなものが時祷書に描かれた信仰の実体として様々な理由をつけてつくられました。これらは特定の聖人の祝日に捧げるミサのために聖職禄を募ったり、あるいは独自の規約により福祉や祈りに従事することもありました。カトリックの教義では教会から得られる恩恵は聖人たちが過去に積んだ功徳によって成り立っていると考えられましたので、守護聖人を新たに起こす運動を主催するのも兄弟団結成の理由ともなりました。ときの人文学者は名義も目的も紛らわしい信心の乱発をシニカルに記述する一方で、いざ自分のこととなるとクリスマスの時期に幼子キリストのために擦ったリンゴと蜂蜜を用意し瞑想に耽るというささやかな信心の徴を求めるのが常でした。なかには真面目な意図をもって営まれたものもありましたが、多くは教会の典礼を直接乱すことはないとして野放しにされたものでした。平信徒の宗教的情熱の向けどころはやがて形骸化し、中世における信心とは衣裳と同じように形式が整えられ自由に着せ替えができるような感さえあったのです。しかしどのように幼稚な発想にせよ、こうした宗教的な情熱は社会現象として当時の誰もが体験し目にしてきたことであり、やがて宗教改革の土壌となっていくものでもありました。 15世紀中頃のボヘミア兄弟団も、そうした時代背景のなかで清貧の生活を目指した信心会のひとつとして営まれたものですが、宣誓や兵役の拒否が当時の封建社会の秩序とぶつかるものでした。ボヘミア兄弟団には手工業者や農民が多数含まれていて、こうした人々に聖書の教えを伝えるために、民衆の良く知っている民謡(恋愛歌など)にチェコ語の宗教詩を添える替え歌を多数つくりました。後にルター派に合流する際にドイツ語に訳されコラールとして残ったものも少なくありません。しかしこうした初期の宗教歌は礼拝形式を改めるまでには至りませんでした。なおもミサの規定はプラハ大司教の管轄下にあり、それに従わない者は聖晩餐の座に付けなかったのです。
ルターによる宗教改革において画期的だったのは、ミサの典礼を平信徒が協働で進めるように典礼のしくみを変えたことです。会衆讃美は福音説教の回復と同じくらい教会の職制を変更する重要な事項となりました。ミサが世俗的な罪(例えば七つの大罪のような)の贖罪のために寄進されるものではなく、既にあるキリストの十字架の犠牲に対する感謝の儀式であることを、それに参加するものが全員で祝うように策定されたものでした。その贖罪の恩恵を公に言い表す中心に立つものが福音説教であり、説教の理解に伴って礼拝での奉仕に携わるのが会衆讃美だったのです。こうして礼拝における会衆という集団の意義は明らかになったのでした。会衆は自らリタージを口にし讃美を唱えることで、礼拝における奉仕の座を獲得できたといえます。福音の座は再び民衆に降り立ったのです。 [NEXT→] |
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