資料 第28回日本基督教会鎭西中会記録(抜粋) | |
第28回日本基督教会鎭西中会記録(抜粋) 明治28年(1895年)10月2日 長崎教会堂にて (前略) 諸教会、講義所、伝道地の教状報告、左の如し。 長崎教会 市中伝道は訪問及び研究の方針により白石氏働かる。土着人にして集会する者十名計。内八名程の求道者あり。共励会は去る六月迄、市中に講義所を設けて二名づつの弁士出席。説教なし来たりしも学校の夏期閉校後はこれを中止し居れり。近々再興の筈なり。学校生徒中には別段求道者起らず。去れど集会には出席する者多し。 島原に近来一名の受洗者あり。然るに近頃は信徒は各地に散じて、目下集会三名程にて至て淋し。 加津佐にて栗屋氏説教するに四十名内外の集あり。 大村は六月まで神学生の毎週働きし後、白石氏来り、引き続き池田氏来り。目下礼拝の集、信徒五名あり。夜分の説教は流行病のため一時中止せしが、近来再び開きしに四五十名の集ありき。求道者に中学生一二名あり好都合。 諫早は未だ求道者なく聴衆は可成りあれど至て冷淡なり。 川棚、彼杵、千綿に伝道場あれども未だ求道者なし。 柳川教会報告なし 鹿児島教会 内部は信徒の有様、前期と大差なく、集会凡そ十五名、夜二十名の集あり。青年の求道者五名あり。外部は各派連合して毎月二回づつ説教す百五十名程の集あり。また各派役者の連合運動をなし県下各地に年四回巡回伝道す。市内一の講義所を開き居しが八月以降は中止せり。近々再び開かんとす。 垂水は前期に一名の受洗者あり。又熱心なる求道者起れり。此外五六名の求道者あれど未だ受洗に至らず。 志布志は岩川、福島、大崎に伝道地あり。夏中、東山学院の広津氏来て働けり。ここに信者三名あり内、一名の法律上罪人を出し為に同地方の大なる妨害を与えたり。 谷山は三宅氏の働く所にして、喜入、指宿、今泉に伝道地を有す。始めは好都合なりしりが、目下講義所の家屋を借受くることさえ難く、公開説教は中止中なり。谷山にては説教の時には百名程の聴衆あり。近来迫害起れり。一名の信徒あり。婦人一名、青年一名の求道者あり。 川辺には高橋氏ありて知覧、加瀬田、田布施、伊作の伝道を受持たる。知覧は以前には望なき地なりしも近頃は追々好都合の方となれり。田布施にては伝道者好遇を受け、加瀬田には青年の集あり。伊作は説教の時騒しく乱暴極む。去れど中には真実に聴かんと欲する者もあれば将来望あり。 ピーク氏の貧民学校は組合教会の一信徒受持つことにて十四五名の来学者あり。安息日学校を開くに、これも二十名内外の集あるなり。 唐津教会 会員は其数少しといえども相互の交情厚し。信徒中放逐の処分を受け、且つ其家族の退会等の事ありて一般信徒に警戒を与えたり。新堀、水島、鏡、浜崎、呼子の五ヶ所に講義所あれども伝道者なし。然し従前の如く継続す。呼子には官吏中、求道者起れり。夏期休業中、寺崎氏此地に働き好都合。 小倉教会 一般人民は吾基督教を是認し徳義も吾教に及ぶ者なしと認知するも至て冷淡の方なり。伝道方針は個人伝道なり。目下求道者四名あり、一週間三回或は四回聖書研究会設く。集会はむしろ少数の方なり。教会内部は平和と一致を有す。他派教会との交は親厚なり。 若松講義所にては四月新築落成、五月より小児安息日学校を開校す。目下生徒三十名余あり。求道者は九名余、内聖書研究を熱心になす者四名、受洗志願者一名ありとす。近来集会は甚だ好況にして日曜日集会は三十名を上下し、三十分の二弱は不信者なり。祈祷会平均十名。 門司は是迄小倉より武久氏出張尽力せしが七月下旬田村兼介氏定住し、京町に一家屋を借入れて講義所とせり。信者は吾教会員と他より集り来りし者とを合せて十名計あり、又一両名の求道者あり。日曜日午前の集五六名、午後説教会には信徒七八名、戸外に立つ者二十名計あり。月木両夜は有志信徒及び求道者の需に応じ聖書購読なす計画なり。 佐賀教会 一般に吾教に対し反対なく市内に一の講義所あり。毎週なりしが近来便宜により月二回づつ説教す。少々の集はあれども求道者起れりと云うに非ず。近来板氏来任、幻燈器を携て働くに結果好し。人民は敢て求むる者なし。五六の青年求道あるも孰れも野心を有せる者等にて真誠の求道者なし。 大内町講義所は七月以来中止せしが再び始めんとす。此所信徒一名あり、他に求道者もあり。集は二三十名にして小児の聴衆中二十名内外の者最も有望なりとす。 大城は都合に由り抛業せり。 鹿島に四五名の信者あり、時々家々を訪問するに過ざりし。 内部は近来受洗者七名あり、全体に困難にして信徒一般に義務を知る者少く、集金なども至て少なし。オルトマン氏来られて以来、一二名の求道する者起り、且伝道学校開校の暁には集も増加すべければ将来望あり。 佐世保講義所 内部平穏、日曜日集会十四五名、求道者六名、内受洗志願者二名なり。木曜日午後吉武氏宅にて婦人の集りあり、求道者も列席にて最も有益の集りなり。概して活気を帯び来れり。 久留米講義所 内部は前期の如く至極平和の有様にして求道者一二名あり。地方伝道も漸々好都合なり。外部も前期の如く至て無頓着の体なり。 中津講義所 至て沈静の姿なれども内部は極めて信仰堅固にして信徒の交親厚く、久しく集会に出席せざりき者も出席する様になれり。目下求道者三名、他にも道に志し聖書を研究せんとする者一二名あり。 宇佐群講義所 当期は養蚕続て農事繁忙の時機となり、是に続て悪疫流行等、種々の故障の為、活発なる運動をなすを得ず。重に訪問伝道に従事せり。尤も当期に於ては二三の求道者あり。 又高田は栗原氏の働により一名の志願者を起すに至れり。将来には孰れも望あり。 宇佐原は毎月一回説教するに集平均小児を除き五十名。教育事業は依然僧侶の手に在り。然れど夜学をねがう希う青年もあり、徳永氏巡回の節、手本等を与えて修学せしむ。 臼杵講義所 他教派は悉く此地を去り、一般人民は賛成すれども進で求むるものなし。二三の求道する人あれども毎会集に出席するに困難なる種類の人々なり。集は概して淋し。佐伯に伝道するに四五十名の聴衆謹聴す。 日出講義所 目下格別なる変動なし。追々伝道上好都合なり。毎聖日の集会には八九名の集あり、求道者平均七名に過ぎず。杵築は未だ何の結果もなし。美以、監督両教会よりも伝道せらる。同じく一人の求道者なし。伝道者濱口氏月二回働かる。 都城講義所 当地は一般不振の姿なり。去れど甲斐元にては演説毎に四五十名の聴衆あり。去る八月より士族屋敷と町の中間に出張所を設けたり、五六十名の人々謹聴す。 大分伝道場 当地新教各派連合して毎月一回役者会を開き、外部に対する伝道策を講じ、内部は至て平静。七月青山氏より四五名受洗し、外に一名の志願者と二名の求道者あり。信徒の内一名の熱心ありて数里の道を遠しとせずして斯道のため助力す。目下安息日の集会、朝は平均七名、夜二十五名より三十名の間なり。漸次進歩の方なり。 福岡博多伝道場 市中の伝道は個人的訪問を主とし、折々田舎間の伝道を試みつつあり。目下著しき結果を得難き状景なれども将来有望の地たり。他教会も又、福岡に重を置けり。総体の教況は先づ沈静なり。安息日の朝の集平均六名夜三十名祈祷会三四名聖書研究会四五名なりとす。 日田伝道場 当地は山間僻地の小邑にして開化の度遅く、凡そ二里を距つる或村には旧幕時代の公札場に「キリシタン」禁止の広告昨冬まで依然掲示ありし山にて、中以下の人士は尚魔法を行う如く思い驚怖する位なり中に、教を研究せんと欲せば種々の攻撃妨害ありて中止する者多し。二三ヶ月前より引続き志願者求道者研究者四五名転地し、目下数名の研究者あり。豆田町を中心として近隣四五ヶ所に訪問伝道を試む。 人吉伝道場 明治十九年、長崎より伝道を始めしが、都合により組合教会に属し、同教会より派出の伝道士二名此地を去りしより、信徒の信仰冷淡となり、集も中絶するに至れり。然るに本年七月より吉和氏ミツションより遣わされたれば、集りは目下は同氏宅にて十五名程あり。多くは元組合派の人々なるが内に吾教会の者もあり求道者三名程あり。 熊本伝道場 内部は平和、集会は一昨年平山氏来任の時と異なることなく七八名乃至十四五名、志願者七名あり。内三名程は絶ず集に来れども未だ受洗に至らず。二名は軍人にして清国にあり、其一名は威海衛にて道を学ぶ。他の二名は至って冷淡なり。他にも道を求むる者四五名あれば将来望あり。信者は十名程あり。又天主教より転会を申出たる者二名あり。集金は少数なれども割に多額なり。外部には敢て反対する者なけれども進で求むる者なし。近来北「プレスビテリアン、ミツション」より北川氏送て南部に伝道せしむ。此所以前は吾基督教に対し迫害を加えし地なるが、目今にては絶て如其事なく、一般人心大に変化せり。昼平均三名夜五六名程乃至十名の集あり。 議長は平山教師をして各教会講義所伝道場の為に特に天父の祝福を感謝祈祷せしむ。 (後略) |
【概要】 鎭西中会は九州から中国地方の一部を含む一帯の教会をまとめた中会。明治14年から日本基督一致教会として出発してから28回目の中会記録のうち、教状報告の部分を抜粋した。中会は春と秋に年2回行われており、これはこの年の秋のものである。以下簡単にコメントを寄せる。 @教状報告は明治42年の第43回中会まで行われたもので、短いながらも当時の教会の状況が生き生きと伝わってくる。この頃は各教会の小会報告も中会に提出されることがまばらだったため、ある意味では教会活動を知る上での暫定的な配慮であったと伺える。 A伝道区分は、教会、講義所、伝道場、伝道地に分かれ、信徒、(洗礼)志願者、求道者、聖書研究者に分類される。 B目を見張るのは伝道の盛んな状況で、各教会が講義所、伝道地を複数抱えるのは当たり前であり、それもかなりな田舎にまで足を延ばす勢いがあったことが伺える。 C教勢のうち当時の特徴として、昼よりも夜のほうが出席の多いことがあげられる。特に伝道場ではその傾向が著しい。日曜休日という制度が民間では十分に習慣として根付いていなかったと思われる。 Dその土地々々で基督教に好意的かまたは迫害などないかの報告が忘れられてないのは、そうした緊張関係がほぐれてから10年強しか経っていない実状もある。いつ政変して迫害の起こる兆しがあるかはミッションにとって関心事のひとつだったと思われる。 Eミッション(宣教団体)のテコ入れは報告のなかであまり盛んではないが、宣教師はいずれも社会事業(貧民学校、伝道学校など)を携えて宣教する器量と経済力のあったことが伺える。 F「五六の青年求道あるも孰れも野心を有せる者等にて真誠の求道者なし」という佐賀教会の辛口のコメントも時代の趨勢を感じさせる(あるいは毎会言っているので個人的な癖のある発言かもしれない)。 |