資料 乏しからじ(「聖書民俗考」より) | |
著:別所 梅之助 (一) 先年の地震(註:関東大震災のこと)になやまされた人は、誰も覚えていよう。変事もあれほどになると、どう手を下してよいのか分からなくなる。銘々にどうにかさせるより、法はあるまい。これが或る人々のおもいであった。「ここは寂しき処、はや時もおそし、人々を去らせしめ、周囲の里または村にゆきて、己が為に食物を買わせ給え」とは、そういう人々の声であった。然しそうしてどうなる。私はあのおり、焼け残った町々の食料品をばたばたと無くなったのを知っておる。食物が乏しくなろう。そう思って皆が急いで買った。東京の町のみか、遠く離れた地でも、そうであったとか、そのおり高原の避暑地で、某家の娘たちも、食料品を買い集めようとした。それを母なる人が制した。娘たちは、まあといって、理想家の母人の顔を仰いだであろう。 こんなに大事になっては、手を下せぬと、世のつね人の思うおり、つよい人格の人が、「なんぢら食物を与えよ」という。ただ聞いただけでは、大層無謀の言である。そんな事が出来るものですか、パンだけ買うとしても大金です、そしてどこに、そんな食料がありますものかと、凡人は答える。 根づよい人は、パンはいくつあるか、調べよという。パン五つ、魚二つと答える。そうすると大層な人が、きわめて細心な事をいう。何千という人を組々にわけよという。混雑をさけよ。そして百人なり、五十人なり、列を正して、田の畝のように座らせる。あの地震の後の配給にたづさわった人々は、秩序の大切なるを会得したであろう。食を与えよという天頼の貴きはもとより、正しく配給せよとの人頼も難かった。しかしそれも実際入用であった。 強き人格の人は、天を仰いで祈った。そして手許のものを分けた。その信念が、人々を己にかえらせた。かえりみれば、自分どものもとにも、さしあたりの用に供すべきものはある。甲は乙にそれを分けた。乙も丙に分けた。買い占めようとすれば、恐慌の為に、町の品物がなくなってしまう。出そうとすれば、一時のことではあるけれど、案外ないでもない。斯うして食べれば、相応においしくもたべられる。将軍家が鷹狩に出て、供にはなれ、目黒の百姓家でたべたサンマは、上なくうまかった。後に魚河岸からとりよせたのは、それほどと思えなかった。それでサンマは目黒に限ると、将軍様が云ったとの落し話がある。そういう趣は、誰の上にもあろう。 足らないと思うので、余計たらなくなる。出来ないと思うので、出来る事も出来なくなる。されど衆とことなる見地に立つ人は、足らぬ事はないと思う。いや足る、足らぬの上に出ている。足らないと思う恐怖もひろまろうが、足りるという安心もたちまちに広まる。足りるとの識見も難かった。サイエンチヒック、マネージメントともいうべき配給方法をも、我らは過った。それでも曲りなりにも片づいた。今また何かしておるのは、十二の籠にみちた余りである。 さてこの物語は、マコに二度(6:35-44、8:1-9)、マタイに二度(14:15-21、15:32-38)、ルカに一度(9:12-17)、ヨハネに一度(6:5-13)出ておる。二つの話は、恐らくもと一つであったろう。そして私は、今いったような、やや合理的な解説だけでよいかといえば、そうでもない、私は古人が私どもとは違った世界に住んでいたのを思う。 (二) 話を一転する。「生命のパン」といい、「生命の泉」という語は、第四福音書に見えて、マコのよりおそき造語と思われぬでもない。されど旧約時代、すでに「なやみの糧とくるしみの水を与えん」(イザヤ30:20)という如き句もある。さればイエスが人々に食を与えたというを、精神的の食物となす者もある。説く人、食をわすれ、聞くもの飢を覚えず。「我には汝らの知らぬわが食する食物あり」(ヨハネ4:32)。喜びは他に分てど減じない。のこりは十二の筐にも満とう。 それもたしかに一天地である。説話のおこりは、さる辺にあったかも知れぬ。しかし私は、そう手早く断ずるのを厭う。それでは後の世の色が、あまりに強い。 (三) 列王紀(下4:1-7)にのれる物語には、むかし貧しき寡婦があった。負債の為に、夫の忘れがたみの子すら、奴隷として取りさられそうになる。預言者エリシャが憐れんで、そなたの家に何かあるかと聞く。寡婦はいささかの油(オレイフ油であろう)をあますのみと答える。エリシャは空いた器を近所隣から借りて来い。そしてあらゆる器に油をつげと教える。寡婦は教えられた通り、器をかりあつめ、その器におのがもてる聊かの油をつぐ。ついでもついでも油は尽きない。あらゆる器をみたして、なお他の器をもち来れと、母がいうと、子はもう器はありませぬと答える。それで油の出るのが止った。さてその油を売って、負債をつぐのい、余りをもて親子の生計をたてたという。列王紀十七章には、これより古いかとおもうつたえがある。 かかるおもいを、シリヤ辺の人は、今なお抱くとか。たとえば善い人があって、貧しい。そうすると顕現の節会(せちえ)の夜など(一月六日)、油なり、小麦なりが、入れ物から湧き出でる。さるおり、感謝と祈祷とをもて、たまものをうくれば、油なり、小麦なり、あらゆる器をみたす。おそれたり、驚いたりすると、たまものは止まってしまう。さるおり夫が納屋に入りて久しく出でぬを、怪しんでうかがい寄った妻が、おどろいて声を立てたので、湧くのがとまったという話もある。 私はそういう話の世界を愚かしいとは思わない。今のシリヤ人のおもいの世界は、私どもの先祖の心の世界であり、福音時代の心の世界であったろう。私はそれを荒唐とはいわない。私は純朴なのを愛する。 今昔物語天竺の部には、金財比丘、または宝手比丘とて、手より黄金を出だす子の話がある。宇治拾遺巻の十五に、世恒という者が、毘沙門に祈って、少し食べて満腹になる土器をいただいたり、千石とっても万石とっても、一斗は必ずはいっている袋をいただいた話がある。私どもは俵藤太秀郷の龍宮から得たという米俵の話をよくきいた。その俵からは、いくらでもお米が出る。ただお米を出したあとで、俵をはたきさへしなければよいのだ。それを後に心なき僕が、俵をはたいたので、お米が出なくなった。俵藤太はまた、切っても切っても尽きぬ巻絹だの、露の硯とて、水のつねに湧く硯をも得たという。下野の唐沢山の井は、秀郷が掘ったので、山上なるによい水が湧いて出た。それをはしためが、刃物を井におとしたので、龍宮との縁が絶えたとか。私の見た時には、よい水でなかった。洞穴などより膳椀をかしてくれるという日本のつたえも、縁のないのでもあるまい。イエスの国のでも、日本のでも、疑うものや、欲ばる者があれば、不思議は止む事となっておる。花咲爺の話も、瓢箪から何でも望む物の出る話にしても、おなじ流である。 イエスは人の病をいやした。イエスは当時の人の見て怪しとするわざをした。それでイエスの言なり、イエスの行状なりが、当時の空気につつまれて、おのづから斯る説話を生んだのであろう。イエスが分ければ、パンも、魚も、ふえてゆく。これは史実とは少し違っていよう。然し実相とはそう離れたものではない。それで私は、かかる世界をなつかしむ。 この間、さる人が、女は心のはたらきなくして、いいつけられた事より外出来ない。之を写せといわれれば、よし本文にまちがいがあっても、まちがいのままに写す。それではいけぬ、まちがいを直せと、いわれたとか。 しかし学問の上では、趣きがちがう。わけても古書などうつすおりは、私意をさしはさまず、後の世より誤りと見ゆるものをも改むることなく、疑わしきは「もとのまま」と注意書をしておく。おのれに解し易からしめんとて、聊か改めたるもの、その代々につもりつもりて、後の代には、すがたのかわりたる文いくばくぞ。さかしらなくば遙に解し易かろうものを。 天の浮橋を新井白石は、船であろうといった。然し私はイザナギ、イザナミの二方を、船にたたせたくない。私は古のつたえを改めるような性急をさけたい。古のつたえは、古に世界に自然であったのだ。 ただ私は、聖書を古典として読むのみならず、之を我が身の上にも読もうとする。さるおりに、イエスが食を与えたとの物語は、最初にあげたような色になるのを覚える。そして次の時代の人には、またおのづからなる読み方があろう。私は吹きしきる木枯らしの冬よりも、もとのままのすがたに、春の通うのをおもう。霞のあなたの古人を読むのはなつかしく、眼前の今人に我ら自らをよむもまた興なしとせぬ。 大正十三年十一月二十三日稿 十五年五月「女子青年界」 ![]() |
【概要】 別所梅之助は明治版讃美歌の委員として有名なメソジズト教会員。花鳥風月を彩る讃美歌の歌詞など文学性豊かなものは、彼の手によるか研削したものがほとんどである。登山をスポーツとして楽しんだ草分けの人でもある。 ここでの「聖書民俗考」は広汎な知識もさることながら、当時先端学問だった民俗学や考古学、科学的なテキスト批判などを直感的に取り込んでいる点は、なかなか侮れない。「私はそれを荒唐とはいわない。私は純朴なのを愛する。」という言葉には、近代に生きながら伝来の思索を続ける独立した文人の姿が伺える。 ![]() Back |