資料 明治時代のガントレット | |
「オルガンの文化史」より 著:赤井 励 (前略)ではそのころの客の入りはどうだったのだろうか。 明治二十九年二月十八日午後六時からの本郷中央会堂での演奏会の場合、「早や五時頃には来会者堂前に群衆し開会間もなく場内寸地を余さずひしひしと詰めかけ楼上楼下殆ど人面を以て充たされたり」とある(「音楽雑誌」記事)。また同誌に明治三十年十月二十七日の演奏会についての報告があるが、ガントレットのオルガンのほか、ケーベルのピアノ独奏、陸軍軍楽隊などがあり、出演者も当時の一流演奏家たちだったことがわかる。本郷中央会堂の名物のひとつは日曜日の晩に行われた、パイプオルガンで伴奏した幻灯会だったという。無声映画が始まるより前のことだから、楽しみのすくなかった当時の人々にとって、このトーキー映画のような試みは胸おどる体験だったにちがいない。しかも本郷中央会堂の演奏会には尺八や琵琶などの邦楽も含まれていたので、和洋折衷を好んだ当時の人々には大変人気のある演奏会だったようだ。これが非常に評判になったため、うわさはついに明治天皇の耳に達し、明治二十五年五月五日午後七時三十分からイビー宣教師とガントレットが宮中に参内して、明治天皇の前で幻灯を実演した(内容はシカゴ博覧会など)ことがあった。この話は『明治天皇紀第八』で確認できる。 また、本郷中央会堂に初めて来た老婆がパイプオルガンを神棚と間違えて、賽銭を投げて礼拝したという笑い話が残っている。当時、古橋柳太郎という少年が建築家になりたいということでガントレットの世話になっていて、会堂のオルガンについて書いているのだが、これがおもしろい。オルガンのふいごに風を入れる係の者が、気に入らない演奏者のときには、途中で風入れをやめてしまったことがあったという。演奏者が激怒したことはいうまでもない。そんなことがあったので、それ以後は一曲の風入れに十五銭ずつ支払うようになったという。風を止められたのが島崎赤太郎であったか、滝廉太郎であったか、とにかくおもしろい話だと思う。本郷中央会堂の演奏会ではオルガンのほかにもオカリナを演奏したりグラス・ハーモニカを演奏(ガントレット、日本初演と思われる)したりしている。皿回しや手品までもやったというから、まるでエド・サリヴァン・ショーだ。そしてガントレットは渡辺久左衛門という芸名で和服を着て、落語までやったという。東京音楽学校ではこんな楽しい出し物をやっていただろうか。 本郷中央会堂のクリスマスも当時の東京ではもっとも盛んなもののひとつだったようだ。明治三十九年のクリスマスの場合、五銭の入場料で二千五百人も入ったという。大正四年(1915年)のクリスマスについて「東京朝日新聞」は「こと唱歌はこの教会がパイプオルガンまでも据え付けてあるだけになかなか手に入ったものである」と書いていた。このころには本郷中央会堂オルガニストは岡野貞一(唱歌「故郷」の作曲家)になっていた。彼は明治三十三年にガントレットが組織した聖歌隊とパイプオルガンを引き継いだのだった。岡野貞一のほか、作曲家の山田耕筰、外山国彦、中山晋平も出入りしている。この聖歌隊から多くの音楽家が育っているのだが、「東京行進曲」をヒットさせた佐藤千夜子はここの聖歌隊員だった。この事実はテレビのドキュメンタリーで放送されたことがある。 本郷中央会堂に去来した人物たちについてもうすこし書いておこう。この会堂は単に教会であるだけではなく、人々の文化的交流があった。当初、イビー宣教師が計画したように、公会堂や市民ホールとしての機能も充分にはたしていた場所だった。社会に対して開かれた教会だったのだ。 (以後、明治・大正期の文化貢献者の名がぎっしり並ぶ) ![]() |
【概要】 東京の本郷中央会堂(メソジスト派明治二十四年献堂)に日本で初めて設置されたパイプオルガンを巡るエピソード。明治中期の教会で行われた大らかな文化交流の一端がうかがえる。和風と洋風を殊更分け隔てる様子もなくありのままを生きる姿勢には感服。ウェールズ出身のエドワード・ガントレット(1868−1956)はカナダ・メソジスト教会のイビー宣教師の自給伝道隊にオルガニストとして来日し、その後日本に帰化。山口県の秋芳洞の発見者としても知られる。大伯父のヘンリーはメンデルスゾーンとも知遇のあったオルガン奏者でバッハ研究家でもある。ちなみに夫人の山田恒は、作曲家の山田耕筰の姉で、キリスト教矯風会の会頭などをつとめた婦人運動家。 ![]() Back |