資料 日本の教会へのメッセージ

教皇ヨハネ・パウロ2世

 日本の司教団は2001年3月26日から31日まで、5年に1度行われる「アド・リミナ」(各国教区司教による使徒座訪問)のため、バチカンを訪問した。その最終日に、教皇ヨハネ・パウロ2世が、日本司教団に託した日本の教会へのメッセージの全文を掲載する。

親愛なる兄弟である司教の皆さん

1 「キリストの計り知れない富」(エフェソ3・8)のうちに喜びを覚えつつ、あなたがた、日本の司教の皆さんを歓迎します。あなたがたは、普遍教会とペトロの後継者との交わりの精神のうちに、真の巡礼である「アド・リミナ」訪問でローマに来られました。あなたがたを通して、私は日本のすべての神の家族にあいさつを送ります。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」(フィリピ1・3―4)。
 大聖年の間、全教会が、救い主の降誕以来2千年間の、終わりのない恵みに感謝をささげました。そして今、あなたがたにあいさつしながら、私は、聖フランシスコ・ザビエルが初めてあなたがたの国に上陸して以来、日本で受け継がれてきたキリスト教信仰の遺産について、神をたたえずにはいられません。初期の宣教師たちは、日本のキリスト者たちに、神の威厳への深い崇敬と、救いのみ業への強い畏敬(いけい)、十字架につけられた救い主への熱烈な愛、そして罪を遠ざける強い意志を教えました。彼らは、日本の人々が生来もっていた地上の事象のはかなさを知る感覚や死に直面しても恐れない強さに訴え、天上とそこに見いだされる永遠のいのちへの愛をかきたてたのでした。その結果、日本でのキリスト教の最初の時代は、あなたがたの殉教者の勇気と揺るぎない信仰により、消えない刻印を受けたのです。彼らの英雄的あかしは、日本の教会の過去を、十字架上の主の光り輝く栄光で飾っただけでなく、現在と未来の日本のキリスト者の召命と決意への道を示してくれたのです。

2 私は、使徒的書簡『新千年期の初めに』で、聖ルカによる福音書にある奇跡的な大漁(ルカ5・1―11)の出来事を深く黙想しました。Duc in altum!(沖へ漕〈こ〉ぎ出しなさい)。このことばは、大聖年の恵みを振り返り、その大聖年が偉大な準備の時となった未来を見据えるとき、私の心に響きました。日本だけでなく、世界の多くの場所で、司牧者たちは、深みに網を降ろし、漁をするようイエスに命じられたペトロが感じたような心境になるかもしれません。私たちは、全力を尽くして漁をしようとしますが、それでも時に、収穫が少ないか、または全くないかのように、そして少なくとも今のところは、何も捕まえるものがないかのように感じることがあるでしょう。それでもイエスは仰せになります。網を降ろしなさい、と。主が私たち以上に、私たちの世界をご存じで、人間の魂と、あなたがたが福音宣教するよう召されている文化の深みを見つめておられることを、信仰が確信させてくれます。
 歴史は、イエス・キリストを宣(の)べ伝えることが特に困難に思え、主の福音への抵抗が感じられるような時にも、大きな報いがあり得ることを示してきました。実際、霊についてのより深いことへの渇望が広がっている多くのしるしが見られます(『新千年期の初めに』33参照)。キリストは私たちに、「活気に満ちた司牧的活動の再開」(『同』29参照)を呼び掛けておられます。創意と勇気をもって、私たちは、時を超えた福音の計画を、今日の世界に当てはめる方法を模索しなければなりません。そして、耳を傾けるすべての人に、主イエスのいつまでも魅力的な姿と、主の福音の真理、「救いをもたらす神の力」(ローマ1・16)を示していかなければならないのです。

3 日本社会の状況に応じて必要とされる信仰のインカルチュレーション(文化内開花)は、あらかじめ用意された計画または理論による結果ではあり得ず、神の民全体が、実際に住んでいる社会との救いについての対話を続けることで得た、生きた経験から生み出されるべきものです。このような対話に指針を示す上で、アジアの教会の司牧者たちは、微妙ですが、非常に重要な責務を果たさなければなりません。それは、アジア特別シノドス(代表司教会議)が、詳細に取り上げ、私が使徒的勧告『アジアにおける教会』で報告した指針を提示していたことです。宗教と文化、社会の密接なつながりが、アジアの偉大な宗教の信者たちにとって、受肉の秘義に心を開き、イエスを唯一の救い主としてとらえることを、特に難しくさせるでしょう。ですから、キリストを宣べ伝えることには、アジアの感性やあなたがたの国の方々の心情に、より分かりやすく訴えるように、かつ正確に信仰の真理を翻訳する、注意深く、粘り強い努力が要求されることになります。課題は、教会全体の神秘的、そして哲学的、神学的伝統との完全な協調のうちに、「イエスのアジア的な顔」を示すことです。
 イエス・キリストのうちに現された神の愛の福音は、すべての人にとっての良い知らせです。それが、私たち人間の存在の意味と目的にかかわるものだからです。第2バチカン公会議文書の有名な一節が言うように、「受肉したみことばの秘義においてでなければ、人間の秘義はほんとうに明らかにはならない」(『現代世界憲章』22)のです。多くの人々が、人生の意味について困惑しているか、彼らを悩ませる実存上、そして人道上の問題を明らかにする光を探し求めている時には、私たち人間の境遇についての真理が、すべての人に内在する神の姿にふさわしい文化と社会を築き上げるために必要な礎となります。神に基準を置かない進歩や繁栄を築こうとし、人間の尊厳に計り知れない損害を与えるような営みがある場合には、教会は、人々に何が最も大切なのかを思い出させる義務があります。それは、真理と善意、正義とすべての人への敬意です。この真実を示すことが、私たちの人類家族との連帯を表す基本的な形なのです。このことを社会に告げ知らせることは、司牧上の愛(カリタス)の卓越した表現となります。

4 人々の霊の切望にこたえようとするとき、私たちは完全に神の恵みにより頼みつつも、注意深く、かつ自信をもった司牧計画(『新千年期の初めに』29参照)の必要性も認識することになります。あなたがたの司牧上の職務が直面する課題は、とても多く、複雑なものです。幸いなことに今は、あなたがたの国では信教の自由が完全に認められており、迫害の日々は過去のこととなっています。それでも、他の類の圧力が現れており、信仰の前に立ちはだかり、あなたがたの職務に問題を投げ掛けています。こうした問題の幾つかは、すべての「先進国」の教会に共通するものですが、そのほかは、あなたがたの国に特有なことです。
 いつもそうであるように、裕福になることには、多くの問題が付いて回ります。その根源は、人間の心のうちに見いだせるものです。だれかが、物質的な進歩の利益を享受する一方で、他の人たちがわきに追いやられ、新たな、そして時に著しく劣悪な形態の困窮の状態に陥ってしまうのです。消費主義的な考え方が支配的になると、人々は「持つこと」への関心に飲み込まれてしまい、「在り方」は損なわれてしまうことになります。精神の協調は分断されてしまい、その結果として、不満がうっ積し、人間関係を築いたり、自らを投げ出し、他の人に仕えるよう決意したりすることもできなくなってしまいます。富んでいる人の間でさえも、どんなにか多くの人が、人生に意味を見いだせない絶望感や、高齢または病気のために見捨てられてしまうことへの恐れ、疎外感または社会的差別に脅かされていることでしょうか。人々が慰めを求める方法の幾つかには、極端に自滅的で、個人や社会を破壊してしまうようなものがあります。その中で、すぐに思い浮かぶのが、暴力や薬物、自殺などです。しかし、魂の牧者として、あなたがたは、聖パウロがローマの信徒にあてて書いたことの真理に、完全に気付いているはずです。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5・20)。この神のめぐみへの信頼が、あなたがたに、目の前に立ちはだかる課題に取り組むための希望と力を与えています。そして、あなたがたの司牧にゆだねられた共同体すべての活力を結集し、偉大な、そして寛大な努力のうちに、今あなたがたが生きている状況に、福音がより目に見える形で、効果的に浸透するよう促しているのが、真の司牧上の愛です。

5 使徒たちの墓所への訪問に当たっての祈りのうちにあるからこそ、すべての司牧計画と活動の目標が、山上の説教の原理に従った(『新千年期の初めに』31参照)聖性にあるということを再確認することがより自然にできるのかもしれません。聖性に召されるということは、特に司教や司祭、男女の修道者に当てはまることではありますが、『教会憲章』の第五章が強調しているように、普遍的な召命なのです。教会の中には、さまざまな役務や役割がありますが、このことは、だれかが聖性に召されていて、他の人がそうでないというようなことを意味するものではあり得ません。洗礼を受けている人はだれでも、神の聖性に向かって呼ばれており、それ故に、「最低限の倫理観と底の浅い宗教心を表面的に生きる安易な生活で満足するのは矛盾なのです」(『同』31)。
 ある意味で、司祭や修道者の聖性は、信徒である人々に奉仕し、人々が聖性の道に向かってよりいっそう成長し、洗礼の召命を全うすることができるようにすることを目的とするものと言えます。英雄的と言えるほどのキリスト教的美徳を体現した信徒の例は、日本の教会の歴史では珍しいものではありません。あなたがたの殉教者の名簿の中には、信徒の名前が傑出して現れていますし、長い間苦難の時期が続いたにもかかわらず、世代から世代へと熱烈な信仰を受け継いだのも信徒の方々でした。真理は、聖なる司牧者たちが、聖なる信徒を生むということ、そしてこの聖なる人々の中から、教会がいつの時代にも、どこででも必要としている司祭職や修道生活への召命が生まれるということです。私たちは、この補完性と協力関係についてのビジョンを心に留め、司祭と信徒の間の関係が、まさに教会の本質である交わり(コイノニア)を、よりいっそう反映するようにしていかなければなりません。

6 あなたがたが、その協力者たちと共に進めていく主要な司牧計画の1つは、日本のキリスト者共同体が、今まで以上に、「真の祈りの学びの場」となり、「そこではキリストとの出会いが、単に助けを願い求めるだけでなく、感謝と賛美、礼拝、黙想、みことばへの傾聴、心を奪われるほどの愛に満ちた熱烈な信心を通しても表現されるように」(『新千年期の初めに』33)することです。こうした祈りは、弟子としての生活の中で慰めや力以上のもので、福音宣教の源泉でもあるのです。祈りと黙想の新たな深みから、「新しい福音宣教」は生まれてくるのです。
 状況に応じた司牧活動と方法論の刷新が、多くがカトリック信者である移住者の流入によって様変わりしつつある小教区や共同体で必要とされています。こうした信仰のうちの兄弟姉妹たちは、多くの場合、非常に限られた情報源しか得られない不慣れな環境への適応に、困難を感じています。彼らには、時に友もなく、言語上の不利をこうむったり、文化的な疎外感を強いられたりするだけでなく、雇用や子どもの教育の機会、そして医療や法律的保護などの必要なサービスにさえ恵まれないことが多いのです。多くの人は、十分な信仰教育を受けておらず、霊的、そして物質的な支援を切に必要としています。彼らの当然の必要にこたえるため、そしてカトリックの共同体から歓迎されていると感じてもらうために、あらゆる努力を払う必要があります。教会は、すべての形態の差別や不正義に反対せずにはいられません。そして、搾取されている人々または声を上げられずにいる人々のために強い決意で働きます。
 日本での「新しい福音宣教」は、聖霊が第2バチカン公会議の特別な実りとして、教会のうちに起こしている共同体や運動への、眼識がありながらも寛大に開かれた姿勢をも意味するものです。しばしば、そのようなグループのうちに、人々、特に青年たちが見いだすのは、霊的な熱意や、彼らをキリストとの個人的な出会いへと導き、遂には新千年期の宣教者にするような、共同体での経験なのです。明らかに、こうした共同体や運動は、司教や司祭たちとの一致のうちに活動し、地方教会の司牧生活との完全な協調のうちになければなりません。「すべてを吟味して、良いものを大事に」(一テサロニケ5・21)するのが、司教たちの務めです。

7 親愛なる兄弟である司教の皆さん。日本の良い土地には、良い種がまかれています(ルカ8・8、15参照)。過去にそのような良い実を結んだ聖フランシスコ・ザビエルと初期の宣教師たちの働きは、彼らの記憶が大切にされ、崇敬されていく限り、豊かな実りをもたらし続けることでしょう。日本の殉教者たちのあかしは、「イエス・キリストの御(み)顔に輝く神の栄光」(二コリント4・6)を示し続けるものです。また、数世紀にわたる迫害と司祭の不在にもかかわらず、ひそかに信仰を守り続けたあの日本のキリスト者たちの英雄的な忠誠は、間違いなく、信仰と日本の文化の実り多い出合いが、理性と心の深いレベルで起こり得ることを証明しています。
 あなたがたと日本の司祭、修道者、そしてすべてのキリスト信者を、「新しい創造の母、アジアの母である」(『アジアにおける教会』51)マリアにゆだねつつ、その神の御子のうちにある恵みと平和のしるしとして、私は喜んで使徒的祝福をおくります。


【概要】
キリスト教伝道の困難な日本で「共同体すべての活力を結集し、偉大な、そして寛大な努力のうちに、今あなたがたが生きている状況に、福音がより目に見える形で、効果的に浸透するよう促す」ことと、「教会全体の神秘的、そして哲学的、神学的伝統との完全な協調のうちに、『イエスのアジア的な顔』を示す」ことを課題としてあげる。




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