資料 第三千年紀における民衆神学の進路模索

金容福(キム・ヨンボク)
韓国神学研究所主催「民衆神学大討論会」(1998)での発題
-未公刊-
訳:香山洋人


 民衆論において民衆に対する理解が変遷している。この変化には歴史的次元もあり、地政学的次元もあり、民族国家的次元もある。同様に民衆神学の理解においても、民衆概念は変遷している。しかしひとつだけ変わらない点があるとすれば、民衆が彼らの生の主体であるという命題であった。民衆論の変遷にしたがって民衆の歴史的社会的主体性の変化とその違いはあるにしても、民衆が彼らの生の主体であるという事実だけは変わらないということだ。さらには、民衆がどのような抑圧的な状況にあっても民衆の主体性は存在論的に喪失されないという主張である。

 今まで韓国の民衆神学において、民衆理解において二つの互いに緊張した争点を持っていた。ひとつは民衆を政治社会的に理解しようとするものであった。このような傾向は民衆を政治的な主体とみなすものであり、植民地体制や独裁体制において政治的に抑圧されている事実を克服するための理論的試みであった。こうした傾向は1970年代の韓国の政治的状況において明らかに浮き彫りになった。もうひとつは1980年代に台頭した傾向として、民衆を階級論的に見るものである。一部の民衆神学者たちが一般の運動圏の傾向にダイアルを合わせつつ民衆理解において社会経済的に抑圧された階級に焦点を合わせたものということができよう。しかし1990年を前後に、東欧社会主義圏が崩壊し市場経済へと編入され中国のような東アジアの社会主義国が市場経済体制を一部導入する中、階級中心の社会経済的構造的理論に基づいた民衆に対する理解は、歴史的社会現実に符合しない問題を持つにいたった。これはすでに平和運動、生命運動、女性運動、人種/その他の文化的な被抑圧民衆たちの運動を歴史変革運動に統合的に連結させることにおいて限界を持つにいたった。特に最近階級中心の民衆理解は市民運動との連携を結びがたくする限界に当面している。さらに、1995年WTO体制が世界的に展開される中、世界の諸民族は地球化の新しい段階に突入することになった。

 我々はこうした歴史的な変革の状況において民衆に対する試みを追及し今までの民衆論の限界を克服する必要を感じている。こうした過程において民衆神学の新しい地平を見出す必要があるように思う。

 韓国の民衆神学は韓国に侵入した女性神学、女性解放神学によって挑戦を受けるにいたった。韓国の女性神学が多少西欧の影響を受けている傾向があるとしても、韓国の女性解放運動と連携しながら韓国の女性神学者たちは民衆神学が韓国女性たちの解放の問題を扱うようにと挑戦したのだが、階級中心的な民衆概念は民衆運動や民衆神学において女性神学が提起する家父長的抑圧体制を扱うことを拒絶し、結局韓国の民衆神学は家父長的抑圧体制を克服し得ない神学として規定されてしまった。これは韓国の民衆神学が女性神学の躍動的変化を受容し、民衆的女性神学を設立しなければならない課題をもたらしたものだったと思う。これと同様に、アフリカの人種解放神学、南米の解放神学、インドのダリッド神学、北米州の黒人解放神学、生命神学、そして最近西欧で読まれているPost-colonial theoryに基づいた神学の理論的発展に従いつつ、民衆神学を発展させねばならないだろう。こうした神学的発展は民衆神学の貢献と使命を広げることだろう。

1、 グローバル化の過程における民衆の社会伝記

 我々は民衆神学の地平を広げるために神学は民衆的でなければならないという命題を提示しようと思う。民衆的であるべきだという意味は、神学の一つの修飾語ではなく神学自体が民衆的でなければ神学ではないという主張である。神学は本質的に民衆的だということである。民衆神学が神学のひとつの亜流に属しているという発想は基本的に誤ったものである。少なくともキリスト教神学、聖書に基づく神学は民衆神学であるという主張である。それゆえ、問題は神学をどのように行うかが問題であり、民衆神学を特別にどうするかが問題なのではない。ここで我々は<民衆>と<神の民>が互いに内包することを主張しているのである。
 我々はこれと関連して、もうひとつの命題を考慮することができる。それは民衆の社会伝記は本質的に神学的性格を持つというひとつの命題である。神学と一般学を区別する今日の風土においてはこのような命題は相当な討論を必要とするだろう。しかしあらゆる一般学的命題はこれが反神学的であれ、無神論的であるとしても神学的実を含んでいるという命題は神学的に生産的であり、神学があらゆる学問と連関関係を設定するだけでなく、あらゆる学問的領域を渉猟しうるという主張を含んでいる。もちろんこれは神学と他の学問との関係を超えて神学が本質的に一般学と関連するほかなく、あらゆる学問は神学的だという命題を可能とするものである。我々は民衆の社会伝記が包括的な歴史経験であるという命題を提示し、民衆の社会伝記はあらゆる学問において接近しうるものであり、さらにあらゆる民衆の社会伝記的叙述は本質的に神学的含意をもっているという主張をなすものである。
 上の命題から、神学は本質的に<民衆の社会伝記>と関連しているという主張が現れる。民衆の社会伝記を学問的に究明するためにはわたしは<民衆学>を提案する。民衆学は民衆の社会伝記を究明するための学問的課題であり、理論的装置でもあるゆえに民衆の社会伝記は民衆学の上にある。民衆学は民衆の主体性を確立する学問である。民衆学の要請は民衆に対して研究することではなく民衆の歴史と宇宙をどのように体験するのかということを研究する学問である。民衆学は民衆を客体化しはしない。
 また民衆学はあらゆる専門領域を統合し民衆が誰であるかに対して叙述する。したがってあらゆる学問的叙述を統合し民衆に対する叙述となるのである。我々はすでに韓国の民衆神学の周辺に民衆経済学(パクヒョンジェなど)、民衆政治学(チェチャンジプなど)、民衆社会学(ハンワンサンなど)、民衆心理学(ファノン)、民衆宗教学、民衆文学をはじめとする民衆芸術が実践、論議されてきた。こうしたあらゆる民衆学の分野を統合し<民衆学>と命名し得るかどうかは解らない。これはまさに<民衆文化人類学>のような方法論を連想させる。ただし、民衆学は民衆を客体化せずに、民衆を主体として設定する学問である点にその本質的性格がある。民衆神学、あるいはあらゆる神学の本質的任務が民衆が自ら生の主人として立ち上がることに参与することだという主張である。これが民衆学の本質でもある。

1−1 グローバル化の過程における民衆の社会伝記は、地政学的地平の地殻変動を感知しなければならない。民衆の社会伝記が、地政学的に本来もそうした性格を持っていたが、国家社会という地平を超越し地球的地平を持つにいたったということだ。これは、資本がグローバル化したことと同様に連携するが、民衆の社会伝記は連帯的に結ばれ地球的地平において展開されうるのだといいたい。民衆神学において社会伝記の探求は今や地球的次元において展開されねばならないということを意味している。最近展開されている民衆神学とダリッド神学の対話は、こうした意味においてふさわしいと思うし、これは先の序論で述べた開放的神学との対話も含むものである。
 まず一つの例をあげれば、東北アジアの地政学的地平は平和問題を民衆の共通安全保障(Common Security of the People)として関わっており国家的次元を超えて考えさせるものである。ゆえに東北アジアにおいて民衆の社会伝記は消極的性格を超えていくものとなる。もう一つの具体例は、最近の労働は国境を超えて移動しており、労働市場が国際化しているということである。ここで民衆の社会伝記は必然的に連帯的理解を要請している。
 やや逆説的な主張となるかもしれないが、もう一つの重要な地政学的地殻変動は<諸民族>がアイデンティティーを核に行う主体性回復のための闘争が世界的に展開されているという事実である。西欧の近代に入って民族国家、国民国家の枠組みと民族の概念は密接な関係を持ってきた。しかし被植民地の状況においては民族のアイデンティティーは抑圧され多くの場合、植民地分割政策の犠牲となった。最近、東欧の社会主義体制の崩壊と地球化の過程において諸民族のアイデンティティー追及は新しい意味を持つことになるといいたい。それはあたかも過去の<帝国の体制>のうちと外から抑圧されてきた諸民族が同様の情況を例示するということだ。民衆の社会伝記はこのように民族のアイデンティティーの問題を連帯的に内包せざるを得ないのである。

1−2 グローバル化の過程における民衆の社会伝記は総体的な性格を持つ。それは民衆の生の物語であるからからだ。民衆の社会伝記は生命と生を区分しはしない。民衆の社会伝記を社会経済的に規定するあまり、民衆の生物学的存在、すなわち民衆の生命に対する物語を見過ごしにしてきたし、民衆の生命は生命系全体と統一しているという事実を見過ごしてきたのだ。民衆学は民衆の生命と民衆の生命的連帯関係を含むものでなければならない。民衆学は生命学、生態学を内包する。
 民衆神学は生命神学である。すでに生態女性学(Eco- feminism)の発想は民衆神学の地平を例示しているのではないかと思う。民衆の生命は地球化の過程において犠牲となっており、生命はすでに歴史の展開にしたがって民衆的経験をしているということだ。生命は決して自然ではない。自然と歴史は結合している。したがって生命と歴史は結合しているのだ。民衆神学は民衆の主体性を主張することにしたがって、民衆の生命の主体性とともに生命自体の主体的性格を物語るのである。

1−3 グローバル化の過程において民衆の社会伝記は民衆の生を物語る。我々は今までの民衆の経済的生活を一次産業、二次産業、三次産業において論議してきたが、いまや情報・文化産業の次元においても語られるようになった。そして我々は民衆の経済的生を国家社会の枠組みの中で主に語ってきた。しかし、いまや民衆の経済的生の物語は少なくとも三次元的に物語られねばならない。民衆の経済的生は地域的次元、国家社会的次元、そして世界市場的次元において連携され展開することで三つの次元において同時に理解されなければならないのである。
 今日の世界市場の展開過程において、民衆の社会伝記がこの三つの地平を物語らねばならないのは、政治経済文化勢力が至急に国境と地域を超越し圧倒してくるという事実を意味している。
 このような点で新自由主義によって吹聴されている超国家的企業、特に金融企業の超国家的性格に注目しないわけにはいかない。地球市場の支配勢力として登場した超国家的企業は単純に経済的な次元においてのみ理解されるべきではない。それは、総体的に理解されるべきものである。
 我々はここで民衆の生活=政治経済(OIKONOMIA:エキュメニカルの語源)をどのように形成し行くべきかという課題を抱えて、民衆の経済的主体形成の課題を抱えることになる。

1−4 民衆の社会伝記は民衆の政治的直接参与という地平に向けて展開されねばならない。民衆の歴史的主体性を語る際に、この点が最もはっきりと浮き彫りになる。我々は民衆の政治的主体を個人の次元から、すなわち自由主義の次元から理解してきた。また、民衆の歴史的主体性を階級的次元から理解してきた。こうした政体(Polity)は全て国民国家の枠組みの中で理解されてきた。しかし民衆の政治的主体は超国家的次元から理解されねばならず、国内外の政治的構造を超越した次元から新たに理解されねばならない。これは民衆の社会伝記において、すでに民衆は超国家的次元における政治的抑圧を経験しているからである。
 我々はここで民衆的政治主体をどのように形成しなければならないかを論じなければならない。これはもちろん民衆の直接参与と密接な関係を持っている。我々はここで共生協同的参与共同体を論議し得るだろう。同時にこの論議は参与的連帯網についても論じなければならない。こうした参与的連帯網が地域的に、国家社会的に、そして地球的次元において展開されなければならないからだ。

1−5 民衆の社会伝記は、地球市場において複合的に複雑に展開される矛盾と葛藤関係をダイナミックに多次元的に理解しなければならないだろう。ある場合には、一つの次元を例に取れば階級的葛藤あるいは性的差別が中心的な位置を占めなければならないだろう。しかし、グローバル市場は、こうした矛盾関係の古典的な位階秩序をひっくり返ししまう場合が多い。そしてこれは状況にしたがって異なるだけでなく、ダイナミックに変わっていくものである。民衆の社会伝記は、地球化の過程において展開される矛盾と葛藤だけでなく、これらの相互関係をダイナミックに理解しなければならない課題を抱えている。
 もうひとつの重要な課題は、こうした躍動性ゆえに相対化される矛盾と葛藤の関係の中でどのように適切に<正義>にのっとった関係を追及するのかということだ。したがって社会正義の概念に対するダイナミックな、特に関係論的正義に対する研究が求められる。
 さらに一歩進めば、あらゆる矛盾と葛藤関係を論理的次元から、あるいは構造的次元から理解する縮小主義的理解を志向しなければならないだろう。矛盾と葛藤の中に共存する連帯的関係とダイナミックで新しい関係の出現を鋭く見分けることができなければならない。ここで、正義にのっとった関係として現れる新しい連帯と和解の糸口を見出すことができなければならないだろう。もちろん正義を放棄する妥協の過程を見分け、指南する分別力も同時に必要とされるだろう。
 民衆の社会伝記は優先的に民衆が主体となる社会的平和(シャローム)を追及する。これはあらゆる他の主体を論理的に敵対化しなければならないということを意味しはしない。キリスト教において語られるディアコニア(DIACONIA:奉仕)は再評価再解釈され民衆を主体とする総体的なシャロームの働きとして理解されねばならないだろう。

1−6 グローバル化の過程における民衆の社会伝記は文化的創造性と主体性の問題、そして文化的アイデンティティーと感性の問題を扱わねばならない。地球化の過程で情報・文化産業の拡大に伴う民衆の文化的主体性、創造性、精神的感性の磨耗を克服し文化的祝祭の共同体(マダン)の形成する課題を抱えている。
 特に、ここで提起しようとしていることは民族文化の民衆的理解である。地球市場の展開過程において、民族文化のアイデンティティーや創造性は民衆的性格を持つということだ。支配文化と被支配文化という関係を想定することが可能だということだ。我々が民族文化を語る際に伝統文化をそのまま保存しようという次元のみを語るのではなく、地球市場文化の中で、民族共同体文化の開放的アイデンティティーの維持発展と地球的地平からの民族文化の創出と他民族に対する文化的貢献を物語るのである。
 ここで先鋭に提起される課題として、過ぎし数世紀の間、西欧文化は東洋の我が民族社会に多様に浸透しており文明の混合という現実を展開している。こうした状況において民族文化のアイデンティティー、特に未来志向的アイデンティティーをどのように創出するのかという問題が提起される。最近、Post‐colonial Theoryにおいて文化的混合論、あるいは文化的突然変異的創造性を語る際、この部分に関心を持つ必要がある。しかし、我々はキリスト教がローマ文化に接触しつつローマの文化を変革させる過程であるとか、去る200年間の東西の文化接触史の脈絡において民族文化のアイデンティティーと創造性、そして地球化された情報文化の中での民族文化のアイデンティティーと創造性を文化的犠牲者という視覚から見る必要があるのではないだろうか。

1−7 グローバル化の過程において民衆の社会伝記は、精神的、霊的、混迷、疲弊、歪曲を克服する課題を民衆神学から与えられている。現代西欧文明は世俗化という過程を通じて人間の精神的霊的根を根こそぎ引き抜こうとするプロメテウス的な企てを行った。これは科学と技術という名のもとに資本主義社会においても社会主義社会においても進められ、これによって西欧キリスト教の根源的疲弊現象まで引き起こしたのであった。
 最近社会主義国家や旧社会主義の国家社会の中で展開される精神的空白、精神的混迷、霊的無気力と無感覚はあまりに深刻であり、この問題は地球市場においても形態は異なるが深刻な問題として提起されている。まず世界には宗教的根本主義が精神的霊的空白を満たし、世俗化の過程に反動的にしかし復古変革的な方向で舞い戻ってきている。これはキリスト教においてもっとも深刻に起こっており、回教、ヒンドゥー教、仏教においても現れている。
 こうした諸宗教の動きは地球市場の政治的力学関係と密接に関係を持って起こるのであり、これは地球的次元での文明の衝突・文化戦争の様相を呈している。地球市場はこうした精神的、霊的、宗教的渦巻きを巻き起こすものであり、民衆は宗教文化的支配者によってそして市場文化の「宗教的」「精神的」「霊的」属性によって精神文化的無秩序と横暴を経験することになる。
 民衆神学の課題は、民衆の霊的活力を回復し霊的コイノニアを通じて精神的、道徳的基盤を構築する課題を持っている。民衆の霊的感性の発展は現実に対する強力な抵抗として、希望のパトスとして、そして未来に対する想像力として展開されねばならないだろう。


2.民衆の社会伝記と聖書

2−1 民衆神学は聖書の物語を今日地球上において展開される民衆の社会伝記に確実に対応させなければならない。民衆神学は啓蒙主義的現代精神に基づく聖書学を排撃する。そして民衆物語と距離を作るとか遊離させる聖書解釈学を排撃する。聖書は民衆の書でありカイロス(反物理的な時限)的な証言であるからだ。

2−2 韓国の民衆聖書学は韓国の宗教の諸経典を民衆的視覚から民衆の社会伝記に対応させつつ交差的相互作用的ダイナミズムを創出しなければならない。民衆仏教、民衆儒教、東学などの経典が聖書と平行線に、そして対話的に読まれる中で、聖書の物語はさらに活力を得るのであり民衆の生を主体的に形成する。

2−3 韓国の聖書学は、民衆共同体のために聖書のテキストをカイロス的に広がる現代的物語として民衆の運動現場に対応させることを意味する。民衆聖書学は民衆神学の基盤を形成する。
(以下略)

2000年11月15日、聖公会神学院「在日韓国朝鮮人関係資料室」の研究報告会で配布した資料です。試訳でかつ部分訳ですのでご了承ください。


【概要】
韓国での民衆神学の広がりと、新しいグローバル化の波に向かっての多くの発題を含む。グローバル化を積極的に受け止め「民衆の経済的生は地域的次元、国家社会的次元、そして世界市場的次元において連携され展開することで三つの次元において同時に理解されなければならない」としつつも、「グローバル化の過程における民衆の社会伝記は文化的創造性と主体性の問題、そして文化的アイデンティティーと感性の問題を扱わねばならない。」という視点も失わない包括的な発題となっている。


  戻る
   Back