資料 <月明>に寄す(抜粋) | |
「日本人と讃美歌」第二部 I 讃美歌「天つ真清水」と月 −永井ゑい子の伝統的抒情世界− より 著:永藤 武 しかし病の床に臥したきりの彼女に許された自然といえば、部屋に飾られた花、窓にさす陽の光りや風や雲や雨といった天候の移ろい、そして夜の月くらいなものであった。中でも「今夜ゑい子は痛みにて身体を動かしかぬる為、又何か食物の加減にて目醒め勝にて朝七時に至る。」(昭和二年八月一日付日記)というように眠れない夜の続きがちな病状にあっては、月が掛替えのない生きた自然であった。 サンフランシスコの月は、 めでゝ見る人も稀なる巷なれば峯には入らで棟に入る月 と、情況において多少のそぐわなさはあったが、月そのものは若い日々に故国で慣れ親しんだそのままである。 月影は昔ながらに照らせどもかはる姿よそのかみのわれ また、 ゆめにもと思へど見ずて月にのみ昔の人の影をみるかな 幾千里あなたの友をわれ見しと月はもの言ふ心地せられて の如くに、月は彼女に時と場所とを超える体験を叶えてくれるのである。彼女はあたかも生けるもののように月に語りかける。 照る月にこと間はまほし其国にわがなき母のますかまさぬか 仰ぎ見る胸の奥まで照りわたる月と共にや語らましわれ この一首には、死後の世界として、天国と月の世界とを彼女が二重映像的に把えようとしている点が見られ興味深い。こうした傾向は死の本当の間際に一層明瞭に現れてくる。月と共に語ることによって、彼女は正に自然に触れようとする。次の一首では、水に手を触れると全く同様に彼女は月の光に直かに触れている。 暗夜かとほそめに窓を開く手にうれしくもさす明月の影 かくて、「美はしき自然にふれて」との彼女の希求は、端的に、 月影をまどかに見せていたづきの雲晴れゆけや今宵見るごと と、月それ自体に収斂されてくるのである。その場合の月は、満月、明月である。一つには形状の問題があるであろう。満月は「円か」である。まんまるで不安定なところがない。一つの完成された姿、完全なるものを感じ取ることができる。それは同時に、円満具足、安らかなさま、おだやかなさまにも通じている。 形状と共に重要なのが、照り具合である。ただ単に明るいだけではない。曇りなく、清らかに済みきっていることが重視される。曇りがないということは、霧、靄、雲等の遮るものがなく、月本来の性情が現れた状態、それが曇りのない状態である。おのづからとは、日本語においては自然を意味する。作為を加えないおのづからなる自然の状態が、とりも直さず望ましいあるべき姿となる。そしてこれは人間の心のあり方、心の持ちようにもそのままに適応されるのである。自然に触れるということは、人間の心も自然になることに他ならない。 病苦に幾度か夜目をさまし漸く明方近くにうつらうつらと眠るに我 目前にはっきりと見る如き薄の本の骨、いかにも一休和尚の見そうな 夢、そして同時に夢の裡に我胸に浮かべるが左の一句 思へわれ枯野がなかに残る骨 夢のうちに幾度かこれを吟じつつ不図心にさとりが開けたやうに感 じた。ああ骨だ、骨だ。残るは富でも宝でも名誉でもない。只骸骨あ るのみだ。毎日あくせく小事に細心し心配し念慮し、末々どうなる、 将来はと小さい心を千々に砕く愚かさよ。三寸息絶ゆれば万事休す。 これを思へば世事に囚はれたる心はさらりとさっぱりとして清月に対 する如く、雲煙にのぞむが如く、只自然の大なる力に任せて心も軽く 身も安くなるであろう。さるにても不思議なるサジェスチョンよ、 複雑なる宗教や真理を学びつつある頭疲れて、禅に近きこの夢。 十一月四日付「あけがたの夢」と題された一文である。彼女自身、禅に近いと記してるが、必ずしもこれを禅的境地と規定する必要はないであろう。月をめぐる彼女の自然体験の積み重ねのうちに、こうした夢に導かれる必然性は準備されていたとみてよい。さらりとさっぱりとした心で月に対する時、月の清さと心のさわやかさとは照応し、感応し合う。この感応関係が実感できれば、それが自然の大なる力に任せきるということであろう。その任せきることが、すなわち信じる、信じきるということである。 翌年昭和三年(1928)二月十八日の「感想」の中でゑい子は、イエスの十二使徒の一人ペテロに因んで次のように記している。この「感想」が「ゑい子つれづれ草」の最後の一文である。頭脳は明晰さを保っていたが、身体の衰弱は、もはや長時間にわたる緊張を要する思索的散文を書き続けるには耐えられなくなろうとしていた。 己れをなくして全然身が神と合体した一刹那弟子ペテロもキリスト と同様あら波高き海原を担途のごとく歩み得た。然るにああ我身は危 くないかと思ふ時には其中に沈みかけた。信の頂上とは即ち己れを全 く忘れ己れを投げ出して宇宙の大体に結合し、其偉大なる力の一部に 属する時である。 と、ここでは、神と合体することすなわち宇宙の大体に結合することであるとされる。換言すれば、神は宇宙的生命体そのものとして感得されていると言ってよいであろう。己れを全く忘れて、その宇宙的生命体に、大体に、大体の一部として有機的に結合し得た時、究極的な信が達成されると見做されている。己れの方から一方的にただ闇雲に信じよ、というのではない。人間の認識を超越しているからこそ信じるに価する、というのではない。揺るぎない信の達成される場としての一体性の実現が、先ず確信せられている。如何にして己をなくし、宇宙的生命体に合体するか。その方法について何ら説かれるところがない。にもかかわらず、そこに究極的な価値を見出し、しかもその実現の可能性については、いささかも不信もないようである。そうしたゑい子の確信を支えているものこそ、自然の感応関係成就の実感ではなかったか。宇宙的生命体の顕現としてうるわしい自然、なかでも、清らかで済みきった月に対する時、彼女の悩み多い心も澄み渡って自然にかえり、宇宙の限りない生命に包摂されるのを感じたであろう。 昭和三年すなわち1928年の復活祭は、四月八日であった。その前夜、ゑい子は十首の歌を詠んだ。もはや散文執筆に耐えられず、和歌だけが彼女の自己表白の道であった。それさえ時には途切れがちな状態にあって、一晩に十首は異例なことであった。あたかも燃え尽きようとする魂の最後の燃焼力を、一気に凝縮させた感が強い。 「イースタア」(昇天祭の前夜月明ければ) 月冴えぬあしたをかざる白百合のいづれ劣らぬきよらけき色 イースタアの夕べなれこそ月影も白くさやけき白ゆりのごと むづかしき心の底もてらせよと清き月影身にあびつゝ 安らかにありてし頃のみをとたまによみかへらまし此イースタアに 幾千歳清き姿を世の人に仰がれつゝも天のぼるきみ イースタアの玉子は円く世の中にいきよと道の教へなるらん さゝやけき玉子のなかに命あり人に永久のそれなくてやは 人は唯形のみこそかへもせぬ命はつゝ″くときはかきはに 衣がへしても思へや清らかに内なる人の衣がへをば 思ひもて神の御家に走せつゝもおろがみまさん白ゆりのもと この連作では先ず、復活祭の一般的表象物である白百合が、その清らかさ、さやけさにおいて月と比定されている。また玉子は円やかなることにおいてやはり月に照応している。白百合と玉子に込められた復活の表象を、月が一身に具現しているのである。しかし白百合や玉子が復活の表象物として持つ意義と、月のそれとでは目のつけどころが違っている。白百合が復活祭に用いられるのは、本来花そのものよりも球根に着目してのことであろう。春になれば球根は新たな芽をふきやがて花を咲かせる。玉子から雛が孵る。そうした不思議な生命現象を現わす球根や玉子に、イエス・キリストの復活になぞらえるべきものを見たのはごく当然なことと言えよう。 ゑい子が月に着目するのはそれとは異質である。月の場合でも、欠けきってまた満ちてくる様相を把えるのであれば、それと復活とは結びつきやすい面がある。しかし彼女は、満ち欠けには殆んど注意を払っていない。十首中実に五首にまで、清さ、さやけさといった言葉が直接繰り返されていることによって分かるように、彼女が問題にしているのは、清らかな状態、さわやかな状態というあり方である。清き月影を身にあびて心の底まで照らし徹されることによって彼女は清まる。ちょうど身に衣更えする如く、心の内も清められる。それが、ゑい子にとっての甦りの意味である。イエス・キリストが永く世の人々に仰がれるのも、その清き姿のゆえであると彼女はみる。「幾千歳清き姿を世の人に仰がれつゝも天のぼるきみ」と、ここに、月の光をあびつつその清らかな光に合体にて正に月に向かって天に昇りゆくイエスのイメージが窺える。ゑい子の実感したイエス復活の姿がこれであった。そして、月の光に同化する時、彼女自身も宇宙の生命に合流し、よって肉体はたとえ間もなく消失し形を変えるにしても、自然と共に永遠の生命に生かされることを確信し得たのであった。 「イースタア」の連作の後、ゑい子は同四月十日に二首の和歌をトイレット・ペーパーの一片に走り書きして残したのみで、再び筆を執ることはなかった。十日の二首は従って絶筆であり、辞世の歌と見るべき作であるが、それもやはり月に寄せたものであった。 月明 下界にはあまりに清し天つ代を夢みて月の照すらん 天つくにの月夜のさまもかくあらん下界のよると思はれぬかな と、月を見る彼女の眼はいよいよ澄みきっている。あまりにも清いと賛嘆される月の光は、それに向けられた彼女自身の眼の清らかさを証ししている。その済みきった清らかさのゆえに、最後の身を横たえている現実の世界が、そのまま天国の様を現出するに至ったのであった。ここにおいてゑい子の救いは、見事に成就せられていると言ってよいであろう。 四月二十日、元(ゑい子の夫)はゑい子を医者に診せた。診断の結果は卵巣癌であった。もはや治療の加えようもなかった。二十三日の朝、彼女は永眠した。享年六十二歳であった。 |
【概要】 明治期に女流の讃美歌作家として随一の存在だった、永井ゑい子の晩年を描いたもの。十六か七に満たない頃に宣教師デヴィスンの元で、メソヂスト系の「譜附・基督教聖歌集」(明治十七年、1884年)を編集した際、104首もの和歌調の讃美歌を残した。有名な讃美歌217「あまつましみず」はその頃の作品。 明治三十五年(1902年)以来は、勉学のためアメリカに渡り、当地で保険業を営む永井元と結婚。46歳にして学士と修士の各位を取得し、第一次大戦の時期を過ごした後、当地で没した。晩年はアメリカでの排日運動も盛んな中で、夫の保険業を手伝うかたわら、日系人の婦人会報に投稿するなど、一市民として生きた。 日本での活動が娘時代に限定されていたために評価の難しい人だが、ここに紹介される晩年に綴っていた「ゑい子つれづれ草」の数々の和歌から、その晩年の心境が伺える。現代の神学者モルトマン氏が、アジアとの対話において宇宙的イエス像が役立つのではないかと、全く別の立場からコメントしている点で、時代の流れを感じる。 ![]() Back |