祭儀的生活 アジアの風習との関わり | |
【山上の礼拝】 古来から山の頂には神聖な意味が含まれていました。多分、人の目で地上を見渡すことのできる数少ない場所であることが影響しているのでしょう。また頭上に物が無いということにも、一種の警戒感からの解放が感じとれます。 そうしたこととは関係なく、古代イスラエルにおいて神殿祭儀の確立する以前には、山上(高き所)での礼拝がヤハウェとの特別な交わりの機会でした。モーセがひとりヤハウェから十戒の石版を受け取るのもシナイ山での出来事でした。反対に律法によって統制のとれた神殿祭儀から見た「高き所」での礼拝は、異宗教の入れ混じる格好の場所に映ったようです。イスラエルの荒廃は各地方に設けられた「高き所」で、先祖代々からの風習と化した無律法な信心に移り変わっていた、という批判は多くみられます。神がアブラハムを試みるため、息子イサクを全焼の犠牲として捧げるように示された場所が、やはり山の中であったことも、異教の風習が入れ混じるという批判を影で支えています。 イエス・キリストの生涯の記述のなかでは、まず最初に荒野での悪魔の誘惑のなか、最後の場面で「非常に高い山」で世界を見渡して「私にひれ伏して拝むなら、この世界を凡てあなたに与えよう」と悪魔に語らせています。イエスは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と聖書に書いてある」といって、この誘惑を退けました。この後イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」といって、ガリラヤ地方で伝道を始めたのでした。 しかしガリラヤ地方での伝道では、イエスは改めて群衆を山上に導き、「心の貧しき者は幸いかな。天の国は彼らのものである」という有名な説教を始められるのです。またしばしばガリラヤ湖畔での伝道の際、よくひとりで山に退かれて祈っておられたとも云われています。このことを含めてみると、イエスはイスラエル古来の宗教的伝統を真実なものに回復することを目的としていたように思われます。その証拠にエルサレムにいる時には、必ず神殿に行きファリサイ派やサドカイ派の宗教派閥との論争を展開しています。それも律法を人間の都合でねじ曲げてしまった宗教指導者に対し、神殿での「生ける神」の礼拝の回復を目論んでしたことでもありました。神殿にある異邦人の庭で犠牲動物の両替屋を営んでいた人々への怒りも、「全ての民の祈りの家」を御利益商売の場にして私腹を肥やす神殿祭司たちの誤った権益を質す行為だったのです。 このようにイエスの伝道は、各地方に根付いた宗教的伝統に対し、全く新しい様式や頑なな原則論を持ち出したのではなく、その本来の意味の回復に心を向けていたとも言えるのです。 そのことが顕著に現れた例は、サマリヤでの伝道でした。サマリヤはユダヤ人からは異邦人として扱われ、独自の伝承としてヤコブの井戸、礼拝場としての山など、エルサレムの神殿祭儀から見ると異教的な世界がそこには横たわっていました。しかしイエスはサマリヤの人々に、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって礼拝するときがくる。今がその時だ」といって自身がメシアであることを明かされるのです。またこのようなイエスの柔軟な伝道の姿勢は山に限ったことではなく、五千人にパンと魚とを分け与えられた場所はガリラヤ湖畔でした。人々の生活の糧となる場所に下って、イエスは神の国を予見してこの奇跡を行ったのでした。 今日、キリスト教会のほとんどは伝統的に街の真ん中に立つ集会所を礼拝の場としています。しかしそのことは規律として決まった事ではありません。むしろ伝道する土地々々において長い年月を掛けて親しんできた地勢を、むやみに新しい流通の場に移し換えることで悔い改めを示すのではなく、元々あった生活と生産の場において粘り強くメシアを崇める柔軟な姿勢を示して善いでしょう。山上でも浜辺でも、その土地で特別な意味を持つ場所に人々が集いメシアを崇めれば、私たちの父なる神は聖霊を遣わし礼拝の交わりの中心に満ち満ちてくださるのです。もちろんそのことによる異教の混在というリスクは存在しますが、そのリスクを越える勇気と力を与えてくれるのも父なる神です。人々が生きているという尊厳の内に秘められた伝道の広がりは、限りなく人の子メシアの支配の内にあり、憎しみ合うよりは許し合うことの福音と、奪い合うよりは分かち合うべき聖なる宴の容姿を、あらゆる世界の住民に立ち戻す機会とアイディアを人の心の奥深くまで追い求めていると考えられます。 ![]() |
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