祭儀的生活 アジアの風習との関わり | |
【石碑と幕屋】 キリスト教会の文化の中心を占める座とは何でしょうか。カテドラル(司教座礼拝堂)のような壮麗な建造物でしょうか。私たちは定住性という基準で考えると、大地に根付いた荘厳な建物に心惹かれるものがあります。しかし逆に定住しないために差別される人々が教会の歴史のなかにあったことも忘れてはなりません。 かつて東欧などに住んでいるジプシーは、土地に根ざした支配秩序に属さない低俗な人とされました。こうした人々には利権を保護する警察権も及ばなかったこともしばしばです。同じことが北欧のサーミ、カナダのイヌイット、北アメリカのインディアンなどにも見られ、非定住の部族が近代化のなかで被った差別は、ほとんど自然のままに整えられた狩猟テリトリーの搾取と、定住化政策による天然資源からの囲い込みにおいて顕著に現れています。狩猟テリトリーを使用する礼儀(マナー)の伝承だけが大地と共生する掟であった人々に対し、土地を個人や民族の所有とかいう規定で封じ込めることが、それまで保ってきた共生の知恵の崩壊に繋がっています。キリスト教会の歴史のなかでは、こうした移動する人々への伝道がほとんどうまくいっていない実状があります。そのために教会も移動することが必要なのです。 現在の教会システムにおいては、一般に礼拝堂の設置が集会の定期的な開催を保障する手立てと考えられています。しかし神殿礼拝以前の時代の聖書の記述には、救いの記念に石を置く習慣があり、それはその石の設置された場所に救いの伝承にちなんだ名が付けられ、礼拝の機会を想起させるための道具立てであったことが判ります。このころは旅するということと聖なる領域に踏み入れることとが、日常的なレベルで受け入れられていました。人が日常的に放浪するために、礼拝の機会が場所々々に設置され、異なる習慣への礼儀が保たれたものと解釈できます。記念碑を建て救いの縁起を奏でることにおいては、現在の教会は放浪する人々を牧する機会を失っているともいえましょう。インディオと同様に、渡世の人を一カ所の礼拝所に縛り付けてしまっては商売上がったりです。 もうひとつは、礼拝所を簡素な構造にして、自然にやさしい知恵に満たされる礼拝堂の可能性が挙げられます。インディオやイヌイット、モンゴル人にも移動に適した簡素な住まいがあります。同じように、イスラエルには、ソロモン王の神殿建設までは幕屋(テント)に聖所を設けた歴史があります。そして聖所移動のために奉仕者を任命することさえ民数記では取り決めていました。礼拝はテント組立の奉仕者の手によって会場が供され、次の場所に移動するときには綺麗なまま掃除していくということもできます。 19世紀初頭のアメリカでキャンプミーティングという伝道集会が盛んに行われましたが、フロンティアと呼ばれる地域で放浪し三々五々となった移民たちが1〜2週間掛けて礼拝の機会を持つことができました。そしてインディオたちはその集会と衝突することがほとんど無かったのです。万民の狩猟と牧畜のテリトリーである自然を占有するのではなく、自然のなかに宿を借りる方法が、彼らの生活習慣に許容される行為だったと思われます。 蛇足ながら移動という点では、御輿(みこし)も聖所が出張する部類に含まれると思われます。安息の礼拝を説教と讃美の出張訪問の機会に換えることも、本来的には可能なことです。福音の訪れを伝える舞台仕掛けとして、御輿のように掛け声勇ましく訪問するのも、さても楽しいことでしょう。 ![]() |
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