祭儀的生活 アジアの風習との関わり | |
【団欒】 太陽の下、人間にとって 飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。 それは、太陽の下、神が彼に与える人生の 日々の労苦に添えられたものなのだ。 (コヘレトの言葉より) 家の団欒に主イエスがいるということは、祭儀的生活の基礎です。聖書を読み祈るだけではありません。古代教会ではアガペーの食卓といって、夕方に貧しい者を集めて団欒を共にする習慣がありました。古代教会の多くは富める信者が自宅を集会所として開放したものでしたから、食卓の準備や費用は喜捨で成り立っていました。アガペーはギリシア語で、愛する価値の無いものに心を向けることを示し、ギリシアの文化では最も意味の無い行為、無駄なものとして扱われました。しかしキリスト教会はイエス・キリストが全ての罪人のために十字架の上で示した愛を指してアガペーと云ったのです。 現代のグローバル化社会のなかでは、物流もさることながら、人の波も相当な量になります。そうしたなかで、好まれる訪問者と好まれざる侵入者という人の区分で、国境が解かれ、また封鎖されます。私たちは恵みを運んでくる訪問者だけを団欒に招くのではなく、不幸を背負い込んでくる者たちにも団欒を開くことが必要です。私たちの役には立たないと一瞥される人々に開かれる団欒こそが、主イエスの愛=アガペーに結びつく狭き門であると考えられます。 私は長い間、上のコヘレトの言葉が刹那的で嫌でした。預言者のような雄大なスケールもなければ、イエスのような親しみと奥深さも無い、とても薄っぺらな人生観です。しかし団欒は人生一度の贅沢な催しというよりは、何よりも人間の命に必要なものだけを営み続けます。そのことを喜び楽しまないのは不幸である、こう言っているように思います。集落に主イエスを迎える小さな一歩は、常に歩み続ける一歩として、団欒の場に求められています。 ![]() |
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