祭儀的生活 アジアの風習との関わり
【韓国の十字架・日本の赦し】

 朝鮮半島の近代史百年を思うとき、50年以上に渡り植民地政策と冷戦時の代理戦争に耐えてきたという大前提がある。しかも中国の朝鮮族自治区を含めると国家としてだけでも民族が3つに分断される。日韓併合時代の産物と云われる在日韓国・朝鮮人もそうした分断の歴史のなかに加えられよう。しかしこうした国家論に基づく必要もない民衆の絆が朝鮮民族にはあるともいえ、韓国における民衆神学が立脚する場となっている。韓国のキリスト教会が主張するとおり、韓国の歴史はアジアひいては世界における苦難の歴史の代表的な面を併せ持っており、韓国は近代史の十字架を負って生まれたとさえ言い切ることができるのである。

 こうした韓国で確立している神学的歴史観に対する応答には二面性があると思う。一面的に観るならば朝鮮民族の歴史自身がキリストの受難に換えられるということはありえない。(統一原理教会のような異端的カルト宗教の活動は無視できない) しかしキリストが歴史のうちにどのように御手を添えられるか、という問いに対する洞察を得ることはできると思う。実際に韓国の民衆神学の方向性は、政治的に不安定なところの多いアジア国家におけるキリスト教伝道に大きな影響を与えつつある。そしてその歴史観そのものが民族の祈りとなって、今も半島の統一問題や東北アジアの安全保障問題とリンクしているのである。

 日本の立場はどうだろうか。私は日本の戦中と戦後の歩みを比較するとき、同じ日本人でありながら理解に苦しむことが多々ある。戦後の国際社会に復帰する道のりの途上には、戦後すぐに「一億総懺悔」という謝罪的な公告から始まり、サンフランシスコ講和条約において戦争賠償責務を免責されるということがあった。実は私個人は、日本の戦後史で最も大きな功績は高度経済成長ではなく、国際社会からの赦免ではなかったのかとも思うわけである。もちろんこれにも二面性があって、「懺悔」というキーワードが戦勝国である欧米諸国に向けて出されたものであり、それに対する回答が「赦し」である、という極めてキリスト教的なコンセンサスに符合している。朝鮮戦争によって現実化した冷戦の大義の下で米国主導による講和促進もあった。しかしこれは言葉の綾だけの問題ではなく、実質的にも日本は戦場となったアジア全域の赦しによって復興と平和を享受してきたと言わざるを得ない。アジア諸国には講和条約そのものに参加せずとも後に個別で条約を交わした国も多く、むしろ本当の赦しはアジア諸国によってなされたのである。

 一方でアジア的な文化に律して一億総懺悔のコンセプトは必ずしも有効とは思えない。日本の政治家が国際政治の舞台で礼に失することが案外多いことに悩まされる。靖国神社への参拝も基本的には自身の禊が既に決していることの確信からくるものであって、伝統的に斎に加わる者が行う懺悔とは全く異なって映る。−−道教では、野外の祭壇で集団的な悔い改めの儀式を行ったが、そこでは顔に炭を塗った信者たちが、祭儀の重々しい雰囲気の中で朗読される懺悔文によって、罪に対する怖れと悔い改めの気持をかきたてられ、興奮のあまり地面にのたうちまわって顔に泥を塗り、罪のゆるしを神に請うて再び罪を犯すことはないと神に誓ったので、この祭りは〈塗炭斎〉とよばれた。(平凡社「世界大百科事典」より)−− 斎は道教の祭だけに留まらず、先祖供養の一環として仏教の「八斎戒」にも取り入れられている。御中元という贈り物も人の罪を許す地官という神へ罪を懺悔する「三元斎」からきている。夏の盆は仏教での自恣(じし)という僧が互いに罪過を指摘し懺悔する行事が中元と結び付いたという指摘もある。なぜ永遠に日本人が謝り続けなければいけないか、というアジアでのコンセンサスのなかには、普段でさえ年毎に改まる「懺悔」という行為が終戦という事実の前から抜け落ちていることへの批判ではないだろうか。終戦記念日に甲子園でサイレンを鳴らし黙祷を捧げる。この行為に対する批判は起きないはずである。盆と終戦の邂逅は日本国内でのコンセンサスを積み上げる一方で、アジア全域に対する態度としても一貫して改め続ける必要があるように個人的には思っている。

 こうして朝鮮半島と日本の戦後の国際社会への復帰をテーマとするとき、全く対照的な意味でキリスト教的コンセンサスが受け止められていることが判る。日本の情況は、赦されることの歴史を認識したうえで、次のコンセンサスへのステップを踏むことが出来るように思う。その意味ではまだ途上にある課題であると言える。






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