祭儀的生活 アジアの風習との関わり
【凡夫キリスト】

 師走といえば兎にも角にも、年の暮れぬうちに事を収めんがために師匠も駆け廻るほど忙しい。そういう季節である。それでも年を越すあたりになるとようやく落ち着きを取り戻し、除夜の鐘を聴きながら蕎麦など一杯…といきたいところだが、百八つもある煩悩を頭に巡らして、今年のあることないこと云い会うのもちと能がない。一年の慶は元旦にありとしながらも、なんだか振り出しに戻っただけのような気がしないでもない。もっともこれは日頃の摂生が悪い証拠である。こういう煩悩に突き動かされて巡りの悪い人を凡夫(ぼんぷ)などというらしい。
 おおよそ仏教には罪というものがないようで、ありのままの自分を受け入れることが仏の慈悲にすがって活きることのイロハのようなものらしい。凡夫はそういう意味で自らの在り方に逆らって、煩悩を巡らすだけ巡らして生きる、煩悩に苛まれて生きていると言っていいように思う。そうした凡夫の有り様を笑って振り捨てることのできる潔さが善いとされるようにも思われるのである。
 ギリシアにおいては愛という言葉の意味を様々な言葉で言い表す。フィリオは至上の価値を追い求める愛で、フィロソフィー(哲学)、フィルハーモニー(交響楽団)などの一定の価値観を極める人々をも指している。一方で自然に誰もが好むことを言い表す言葉にストロゲという言葉もあり、花がきれいとか、子犬がかわいいというようなことが当てはまる。またエロスは肉体的な一体性を実現する愛で、美貌や性的な関係をも言い表す。そうした様々な愛の様式に囲まれて、アガペだけは無価値なものに振り回される愛として最低の奴隷的な愛の姿であったようである。それがキリストの十字架の愛を言い表す言葉として使われだしたのは、ひとえに罪の贖いという無価値になった神の子の姿に他ならないのではないだろうか。人の子の生涯に蔑まれ苛まれて生き抜いたキリストの生き様には、人が神になるという高貴な事柄とはまるで逆さまの人生観が潜んでいるように思う。
 イエス・キリストは生まれながらにして神の品格を備え持っておりながら、ナザレの村の大工の息子として生まれた。弟子にしたのもそんじょそこらのガリラヤの漁師など、あえて生まれの高貴でない人ばかり。最後には罪人の姿をとって十字架に死んだ。これを凡夫の生涯と云わずにいられようか。徹底して凡夫足り得た神の子は、罪に嘆く人を深く憐れみ救いの手を差し伸べるお方でもあった。心の貧しい人、悲しむ人、これらの人を幸いだと言い得た人は、凡夫の姿勢を崩さずに生き抜いたお方でもあった。キリストが凡夫として大いに泣き、凡夫として大いに笑うことの愛おしさを思いつつ、自らの儚い生を振り返りたいように思う。それはキリストに贖われる多くの瞬間を蓄えながら軋み呻いて居るのである。







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