祭儀的生活 アジアの風習との関わり | |
【だるまさん】 達磨(だるま)さんはインドの高僧の名。墨絵の達磨大師は男勝りの豪快な雰囲気をもつが、愉快な張子人形は七転八起のことわざ宜しく愛嬌のある仕草で親しまれる。もとは農家が蚕の繭の形に似せて作り、蚕の起き(生まれてから四回脱皮を繰り返す)がよくなり、商品として大当たりするように祈願して片目(向かって右)に墨を入れ、やがて蚕が良い繭をつくると残った片目にも墨を入れ蚕に感謝し、喜び祝ったそうな。 それが巷に溢れるやいなや、達磨大師の不屈の精神にあやかり、目標を立てて精進・努力して 無事達成するよう願いをかけるものとなる。子どもの遊びに「だるまさんが転んだ」とオニが声を数えて、振り向きさまに皆が動きを止めて我慢する・・・そうしたこともひとつの事柄にじっと耐えることの習わしとして広まったのであろう。我慢に失敗すればオニに掴まるというやるせないオチのあるにはあるが。張子のだるまは、いかにも仏法に開眼したギョロリとした眼をしているが、今や片目を閉じ、選挙、受験、はたまた商売繁盛と、世事の事柄も選ぶところなく縁起を担がされる始末である。競争社会の必勝祈願とはいかばかりぞ。 そうしたダルマも散々縁起を担いだあとは、達磨供養といって焚き火にくべてお役ご免となり、新しい繁盛のために家々に新調される。勝つも負けるも皆でご破算ということだろうか。思えばこれほど庶民に小突かれ親しまれている縁起物も無いのではなかろうか? あるいは家財道具も津々浦々と供養されるが、ダルマさんだけは元が元だけに、そのような扱いは別格中の別格である。地蔵様の首が無くなったと大騒ぎするのとでは雲泥の差があろう。 しかしキリスト教の本尊とも言えるイエスさまに限って言えば、あながちそうとも限らないものだと感心する。十字架に死してなお人を愛せたる苦難の僕は、天に昇ってなお慈しみと取り成しの主であらせられる。皆が揃って私利私欲に走る世の中で愛を説くこと自体、それこそ片目をつぶるどころの話ではない。勝つことばかりに追い回されて、精進を忘れた人々の中で転げ回るダルマを見て、私たちが一体なにを犠牲として捧げて生きているのか・・・人として生きる道の尊さを今更ながら考えさせられるのである。 ![]() |
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