会衆讃美と奉仕の座
宗教改革以前の会衆は礼拝で讃美する機会がなかったといわれますが、これは民衆に歌う習慣がなかったというわけではなく、民衆の歌は教会の外の世俗的な恋歌や娯楽に集約されていたのです。これには聖職が封建制度に組み込まれていたことにも関係しています。農民は畑を耕していればよく、礼拝は聖職者が行うという縦割り社会だったのです。これが解放された宗教改革で福音説教と会衆讃美が両輪のように支え合っていたのは驚くことではありません。説教に応える会衆はいたるところで讃美を歌い、教理的な問答も歌に合わせて憶えていきました。こうして福音の座が民衆に降り立ったのです。
改革初期の説教の様子(説経壇の周りに会衆の座る場所がない)
【コンテンツ】
1.礼拝のなかで
2.家庭の団欒で
1.礼拝のなかで
宗教改革の礼拝で突然、様々な身分の人々が一緒に声を合わせるのは容易なことではありませんでした。なかには調子外れな声で歌う人も居たでしょう。宗教改革の初期には先唱者を立ててメロディーを復唱させる方法をとりました。やがて教会で学校教育(文字の読み書きや歌唱指導)を施すようになり、さらにオルガンによる伴奏が礼拝に復帰するとこうした伝統は消えました。バッハの時代にはわずかにオルガンによるコラール前奏曲というジャンルが残さたくらいです。開拓時代のアメリカでは歌詞を先行して歌うライン・アウト唱法や、土曜の歌唱学校(シンギング・スクール)が盛んに行われ、今でもタイムカプセルに包まれたような教派が残っています。
音楽と学芸の問題は中世以来のモチーフであり、中世においては哲学の対象としての音楽と演奏に供される音楽とは区別されるものでした。そのうち実践を伴った音楽理論が14世紀のアルス・ノヴァのような記譜法の提案や、15世紀のミーントーン調律の提案に繋がっていくものです。宗教改革時代の音楽環境は、中世において思考分離していた理論(theorica)の部分と実務(Practica)の部分とが交錯している情況にあり、残された楽譜から推察できるもので直接的に礼拝で用いられた歌唱法に行き着くことはなかなか難しいというのが正直なところです。実際には色々な歌唱スタイルをもとに推定モデルを用いて実践的な問題に落とし込むというのが良いようです。例えばルターの「神は我がやぐら」は、ラッパの音を真似たものなのか、フロットゥーラという踊りに基づいているのか、という議論は絶えないと思います。伝統的には中世騎士道に通じる勝ちどきのラッパをイメージしますが、ダビデが救いを祝って踊ったと考えるほうがルネサンスの嗜好に適合します。このように同じ時代区分で同じ歌い方に限定するというよりは、むしろ当時の宗教歌謡が中世的な演技として機能していた多様性に気付かされるという感じがします。各歌に込められた演劇的機能を礼拝の機能のなかで発現させるように掘り下げることが、宗教改革時代の会衆讃美を理解するうえで最も大切なことだと思います。
中世の大学で音楽理論を学ぶ人々 (学生の他、修道士の姿がみられる) |
ギムナジウム(教会学校)での歌のレッスン (子供から老人の全てが関わっている) |
古典音律について
歌のメロディーは音階とリズムによって刻まれていますが、音階には色々な幅が存在します。ドレミの音階も時代によって少しずつ異なるといっても良いでしょう。この音階の調律のことを「音律」といいます。例えばド〜レの音階の幅には、ド-ソ-レと純正5度の展開で取った場合(ピタゴラス音律)と、純正3度を正確に取った場合(ミーントーン:中全音律)とでは音程にズレがでます。5度から得られる音階は明るく澄んでいて、3度から得られる音階は柔らかく暖かい感じがします。この場合、二者のハーモニーの特徴に従って音階の幅を多少動かすことによって響きの美しいメロディーが得られます。これらを総じて古典音律といいます。
胸声によって生じる自然な4度音程をもとにした単旋律のハーモニーの変化
(ジュネーヴ詩篇歌24篇のメロディーによる)
9世紀の音楽理論書Musica Enchiriadisに記された初期オルガヌムの譜例
しかしこうした特徴は転調する音楽には不利なので、現在の楽器では1オクターブを等しく12音に分割した平均律が用いられます。それによって様々な響きのする楽器が同じ特徴を得ることになりますが、逆に歌声のもつ伸び伸びした雰囲気は失われていくことになります。西洋音楽で平均律が完全に定着するのは19世紀末のこと(マーラーが平均律で響きの色彩感が失われたのを残念がっている)で、モーツァルトやヘンデルはミーントーンと呼ばれる3度の響きを重視した音律を好んだと言われます。ショパンは自身の作品の演奏に調律の異なる数台のピアノをコンサートで用意したそうです。これらを照らし合わせると16世紀後半から19世紀前半までは、ミーントーンを中心とした音律が支配的だったことが判ります。
この流れに対し例外的といっては何ですが、バッハの時代には逆にピタゴラス音律のような純正5度を中心とした調律が提唱され、バッハのフーガを用いたオルガン曲にはそのほうが好ましいものもあります(ヴェルクマイスター第1やキルンベルガー第1など)。ミーントーンより長3度を広くとるべきだとあえて否定する真意は判りませんが、案外北ドイツの会衆のうちにそうした習慣が残っていたとも考えられます。逆にコラール前奏曲はミーントーンに近いほうが音の解け合いが良い感じがします。こうしたことはそのまま17世紀から19世紀の讃美歌の歌唱スタイルにも結び付いてきます。
これらの音律の問題はバロック・ピッチ(A=415Hz、現在より半音低い)のような問題よりもさらに本質的で重要なものです。そもそもバロック・ピッチで問題となるのは、弦楽器のようにガット弦と弓のテンションとが重要になる場合です。実際には管楽器に多かった教会ピッチ(A=462Hz、現在より半音高い)と合わせるため、管楽器を譜面上で2度下げたり、G管、D管の組合せだったものをF管、C管に改良するようなことを行っています。これらはオーケストラの発展史には関わりがありますが、聖歌史のなかではオラトリオなどの限られた分野でのことです。
こうした音律の問題が広く扱われるようになったのは中世音楽の研究成果が顕われてきてからで、これにさらに民族音楽の伝承が加わってくることになります。讃美歌はフォークロアとの関わりが強い分野なので、このことも注視していかなければなりません。
音階とリズムについて:中世、ルネサンス、バロック期の違い
讃美歌21で編集方針の変化で目に付くのは、宗教改革期の讃美歌のリズムの扱いです。4/4拍子で書かれたコラールは割り切れないリズムに変わり、ジュネーヴ詩篇歌では小節線が消えました。またオルガン伴奏も和声や転調の法則性がなくなったため、指使いが難しい以外にこれまでとまるで違う印象を受けると思います。これは古い讃美歌の楽譜をそのまま載せることにより生じたことです。16世紀の讃美歌は自由なリズムのメロディーで構成されていましたが、最近は17世紀以降に行われた歌詞を均一に歌う和声的な扱いをやめて、宗教改革のダイナミズムを再現するために作曲された当時のリズムで掲載しています。ただ当時の楽譜は譜面どおりに読む以外に、慣習的なリズムを補足して読む習慣もありましたから、必ずしもオリジナルがオリジナルではないということもあります。とくにオルガン伴奏は16世紀後半から17世紀のアレンジを載せていることもあり、これも当時の伸び伸びした歌を阻害する傾向があります。過度的(transitional)な時代様式を限定的に捉えることは意外な落とし穴があるということになります。
宗教改革時代は様々な身分の人々が礼拝という場で入れ違う時代でもありました。これらの人々は普段は住む場所も話す言葉も違うというのが当たり前でした。音楽でいえば宮廷で好まれた純正3度の響きをもつ柔らかい音律と、中世から民衆の間で使われていた5度の響きをもつ硬い音律とがコラールの歌唱でせめぎ合っていました。前者がフランドルの芸術家による超一級の芸術品だとすると、後者は吟遊詩人あるいは学僧たちが喜捨を求めながら民衆のうちに広めた民謡として整理される歌です。中世ではバグパイプのドローンに代表されるような5度の音階が支配的で、ルネサンスに近づくにつれ3度の響きが流入してきますが、このような時代区分は非常に緩やかに推移していたようです。ドイツでもゲルマン色の強い北ドイツとフランスやイタリアと接していた南ドイツでは文化の土壌が異なり、好まれる音楽にも違いがありました。いずれにせよ国柄以外にも身分制度の壁のなかでも音楽の嗜好が区分されていたと考えて差し支えないと思います。今に例えれば宮廷と民衆との音楽の嗜好にはクラシックと演歌の違いくらいあったといえば判りやすいでしょうか。それだけ違和感のあることを16世紀の宗教改革は礼拝のなかでやってのけたのです。初期のコラールにはこうした文化的多様性を背景にもつ傾向が顕著です。実際に歌われる際に聖歌隊が先唱の役目を担うときには、フランドル風のポリフォニーに編まれたものと併行して、より旋律線の判りやすいホモフォニーにアレンジされるもの(Cantioale様式)が増え、これがコラール編曲のスタンダードになります。バッハの時代にあってもこうしたコラールのアレンジが行われたことは記憶に留めておくべきだと思います。
やがて17世紀にオルガン伴奏に合わせた和声的なコラール歌唱が定着し違和感を緩和するような方策がとられます。ジュネーヴ詩篇歌にしてもイギリスで同じようなことが行われました。逆にドイツではイタリア音楽に影響を受けた歌謡的な宗教歌も作られ、会衆歌(コラール)と対比した教会歌(キルヒェン・リート)として知られます。このときには教会学校(ギムナジウム)に代わり「エルベの白鳥団」なる文芸サークルが編集にあたるなどしています。この方法は中世騎士団の再来のような様相があり、一種の守護者としての貴族精神が伺えます。いつの時代においても讃美歌は、どういう身分の立場で讃美をするかが比較的重要で、音楽の造りのなかにも名残を留めていると考えて差し支えないと思います。
宗教改革時代のオルガン
![]() 室内用のオルガン |
オルガンは中世を通じて音楽理論を体現する思弁的な楽器として知られていました。そのためか15世紀のカトリック教会では聖歌隊の代わりにオルガン演奏で済ますオルガン・ミサというスタイルも多くみられます。フランドルの作曲家による多声音楽もオルガンで演奏されました。当時の聖歌隊は、寄進による私的なミサが一年を通じて週日に4度あり、朝には托鉢のため聖歌を歌って周り、夕には聖務日課のレスポソリウムを歌うという多忙さでした。そのため少人数でも応唱のできるオルガン・ミサは必要不可欠でしたし、ミサの形式的な側面を助長したのかもしれません。そのこともあってか宗教改革時代にオルガンはカトリック教会の楽器として破壊されたり使用禁止にされたりしました。これに対抗してトリエント公会議は会衆讃美を含む世俗的な聖歌の禁止と共にオルガン・ミサの容認を行います。 |
16世紀にはグーテンベルクによる印刷技術の改良でこれまでとは異なる大量の印刷物が出ました。ルターの九十五箇条提題も単なる噂ならあれほどの反響はなく、ルターが教会の扉に貼付けた1枚の紙を印刷して流布させたことが事の広がりを作る要因にもなりました。同じように会衆讃美はポケット版の印刷物として出版され、それまで礼拝堂の聖歌隊席に備え付けてあった羊皮紙の写本とは違う形で民衆の手に届けられました。宗教改革以前の聖歌隊は、街の有力貴族や兄弟団の寄進による私的なミサが一年を通じて週日に4度あり、朝には托鉢のため聖歌を歌って周り、夕には聖務日課のレスポソリウムを歌うという忙しさでした。これが一気に民衆の手に移されて、広場での集いや家族の団欒のような様々な機会で讃美歌は歌われ楽しまれたのです。なかにはフランスのように讃美歌を広場で歌うことを禁止するために絞首台が置かれた例もあったそうですが、それほど民衆を夢中にさせる魅力が讃美歌にはあったのです。
1529年のコラール集 |
リュートを弾くルター?(18世紀頃の版画) |
俗謡と聖歌のはざまで
中世では聖俗が身分制によって縦割りに考えられていましたが、宗教改革では信仰と救済に身分の隔てを排除しました。これは中世の秩序の崩壊にも繋がる一方で、讃美歌において聖俗の差を解放した一面があります。この道筋は15世紀の人文主義者によって進められてきたものですが、宗教改革によってよりラディカルに展開されたものでした。しかしながら会衆讃美はカトリック教会の慣習と世俗の道徳的に奔放な姿勢との板挟みにあったことも事実です。これを払拭するために様々な讃美歌のバリエーションが生まれたことは言うまでもありません。礼拝讃美の肥大化と世俗化は現在も同じ傾向が続いており、繰り返し起こる課題でもあります。
放浪楽士 |
バグパイプで踊る人々 |
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特別なミサのために聖職禄と壮麗な写本が寄進された |
宗教改革において一般信徒が礼拝での奉仕として参加する会衆讃美は、もう一方では家庭での聖務日課のように日毎の信仰の糧としても用いられました。中世以来の伝統として時祷書という教会暦をモチーフにした個人祈祷書があり、(1)カレンダー(各月ごとにキリスト教の祝祭日や聖人祝日を記載)、(2)四福音書の抜粋、(3)聖母マリアの祈り、(4)聖母マリア、聖十字架、聖霊の各聖務、(5)懺悔の七詩篇、(6)連祷、(7)死者の聖務、(8)諸聖人のとりなしの祈り、などが書かれていました。時祷書は修道会での聖務日課を補完するための小冊子として最初編まれ、次第に平信徒用のものとして流布されたものでした。領主の好みで羊皮紙に綺麗に描かれたりしたものが世俗的美術の代表作として残っています。これをルター派では聖書日課(ローズンゲン)やコラールとして、カルヴァン派では教理問答書や詩篇歌(カルヴァンは詩篇を歌う祈りと解釈していた)として受け継いでいきました。民衆たちの生活趣向が一変して宗教的な内容に置き換わったともいえる出来事として聖書と会衆讃美は用いられてきました。
![]() ペリー公のいとも豪華な祈祷書 |
![]() 小さい時祷書の例 初期のローズンゲン |
様々な楽器によって
宗教改革の初期における楽器の扱いは、ミサで助任司祭の代わりを務めたオルガン(応唱する聖歌隊が多忙だったせい)はもとより、フルートやバグパイプ、リュートなどの身分の低い楽器は踊りや酒宴を連想させるものでしたから、礼拝では排除される傾向にありました。しかしそうした傾向も16世紀半ばにして人文主義の影響で変わりつつあり、音楽は青年の憂鬱を吹き払う健康的なものと受け取られるようになりました。そして音楽家の多くは会衆讃美のメロディーを主題にした器楽曲を多く書くことになります。リュートやリコーダーなど家庭で楽しむ楽器の他、パイプオルガンも複数の音色(ストップ)を有してコラール旋律と装飾音符とに分離する構造に変わっていきます。イギリスでは器楽演奏に対する抵抗感は少なかったようですが、ドイツでこうした流れを決定的にしたのはM.プレトリウスで、北ドイツのハンザ同盟都市を基点に体系的な演奏譜とミーントーンの実践で大きな影響をあたえました。楽器の構造の変化も礼拝での使用における重要な役割だったのです。
笛と太鼓で踊る人々 |
Michael Praetorius(1571‐1621)の楽器解説本 |
ルネサンス期の家庭楽器
宗教改革時代の楽器は中世からバロックにかけての過度的なところがあり資料に乏しいのが現状です。当時の楽器は中世以来の身分秩序のなかでの機会音楽として考えられ、人々が身分相応に喜怒哀楽を演じるための機会を提供する道具でした。楽器にもそれらの機会に応じた象徴的な意味での身分の序列があり、ラッパは公権力の象徴として塔のうえから時報を告げ、ハーディーガーディーやバグパイプは身分の低い人の楽器として疎んじられましたが庶民の踊りには不可欠でした。中世における楽士の身分は規格外の自由身分に相当し、例え王宮に出入りする楽士であっても職人組合や市民権の付与は得られませんでした。一般に名を残している人の多くは参事会や聖職禄をもつことで名誉を得ていたようです。そのためか組織立った器楽アンサンブルの形成は立ち遅れていて、聖堂での器楽アンサンブルはカトリック圏のヴェネツィアやミュンヘンなどを除くとほとんど見あたりません。16世紀後半のプロテスタントの音楽家はこれらの地域に留学して学んだ人々が多かったのです。 |
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一方でこの時代のアマチュアで流行した家庭音楽は、次の時代のオルガン芸術を語るうえで非常に大きな役割を演じます。楽器としてはポジティーフ・オルガン、ヴァージナル、リュートなどが多くの挿絵に残っていて、ほとんどは流行歌や踊りをイタリア風にアレンジして演奏していたようです。このように音楽を楽器特有の身分制に区分けしないで一様な響きに抽象化するメソッドが器楽演奏の主流に迎えられるのです。この時代のチェンバロ属はいずれも小型で、スピネットあるいはヴァージナルと呼ばれていました。スピネットは最初イタリアで生まれ、その後イギリスで大流行した後、低弦の豊かなヴァージナルに改良され、フランドルに多くの工房をもつに至ります。イギリスではヴァージナルの後に更に改良されたスピネットが量産され、17世紀末に至っても人気の衰えることはありませんでした。イギリスでのヴァージナル音楽の流行はオランダにも波及して、フェルメールの絵画に出てくる他、Sweelinkのようなオルガンの大家にも演奏技法のうえで影響をあたえました。やがて詩篇歌やコラールの本格的な変奏曲が生まれるまでには、それほど多くの時間は掛かりませんでした。こうしてヨーロッパ中の都市で商人の勃興するなか、家庭という場は当時のトレンドを動かす原動力にもなったのです。ドイツ・コラールもオルガン以外にリュートやヴァージナルで演奏してみると少し変わった見方ができるかもしれません。 |
家庭音楽は個人が楽しむ以外に、仲間内でアンサンブルすることもありました。ルネンサンス期の多声部で書かれた声楽曲を合奏するのに用いられた楽器にヴィオールやリコーダーなどがあります。この同族の楽器同士で組むアンサンブルはホール・コンソート(英whole)と言います。異種の楽器を組合わせるものをブロークン・コンソート(英broken)と言い、一般に室内楽といえばブロークン・コンソートの発展形を指すように、イタリアでのコンソートはそのままコンチェルト様式に例えられるように発展していきます。ルネサンス期のイタリアではフランスの歌謡的で融和的なスタイルがまだまだ好まれました(このことは後にフランスがイタリア様式を再輸入する際にブフォン論争として発展します)。コンソートにはパヴァーヌやガイヤルドのような舞曲に加え、イギリスではアンセムといった聖歌のアレンジも同時に好まれました。ホール・コンソートでの演奏はハーモニーの解け合いが良くアマチュア演奏家には人気のあったものです。楽器としてのリコーダーは日本で教育用楽器として普及してますので馴染み(腐れ縁?)のある人も多いことでしょう。 |
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![]() Kynsekerモデルのリコーダー・コンソート |
![]() ヴィオール・コンソート |
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こうした融和的な価値観のなかで練られた演奏法は、16世紀後半にいたって一種の人文主義的な思索の対象になりました。つまり様々な風俗を背負った音楽が均一な楽器のパレットにおかれることにより、機会音楽が背景にもつ風俗そのもののリアリティよりも通観的な視座で音を聴く(鑑賞する)ことになるからです。こうした模索が続いたあとに異種の楽器がそれぞれの特徴を持ちつつも融和的に響く演奏法が生まれることになります。17世紀にオルガンはルネサンス期のオルガンにストップを増設し、各ストップをコンソートのまとまりで捉え対比させるようになります。17世紀に入ってドイツに突如として現われるオルガン曲の数々は、こうした家庭楽器での試行錯誤を経て熟成されたものが活かされているということがいえると思います。
一方で一度コンソートによって均質に整えられた後の時代から16世紀の讃美歌を達観すると、かえって元の身分制に彩られた文化的背景を判りづらくしている面もあります。更にはリード・オルガンが非常に多く使われた日本においては、讃美歌編纂の背景に楽器の特性が加味されているように感じます。面白いことに明治以来から日本のプロテスタント教会で良く使われているリード・オルガンには、大元のフランスのハルモニウムが管楽器主体のストップを集めているのに対し、米国での改良を経てヴィオール・コンソートの名残が付け加えられています。英米の文化的な流れのなかでハーモニーについて何を基準に考えていたかのひとつの考察になりえるかもしれません。ヴィオールも少々高価ながら親しみやすい楽器なので参考にしてみると良いでしょう。逆にヨーロッパでの最近の傾向を受けている讃美歌21などのように宗教改革時代の讃美歌を初期の楽譜で再現しようとする場合には、16世紀後半での試行錯誤をもう一度繰り返して再構築していく必要があるように思います。