【コラム】 奉献舞踊について | |
![]() ここでは執事が、地上の食物のことに具体的に関わるための、ひとつの態度を示している。その態度とは、彼が食物のことに携わるのは、ひとえにイェスが支配する祭儀共同体を備えるためにある、という強固な意志表明である。彼自身はその意味で、聖晩餐のもてなしのために立ち振る舞う祭司職に合わせられている。 もちろん祭儀において確認される事柄は、我々の贖罪と和解、感謝のために饗されるものが、唯一イェスの犠牲であるという点に絞られる。聖晩餐は、かつて楽園にあり、また新しく創造される神の国において未来永劫に続くであろう天の祝宴を象徴しつつ、地上における神との交わりの回復と、祭儀共同体イスラエルの再生を担っている。 ![]() 通常この手の絵の季節観を表す春=再生のイメージは、イェスという人の子(メシア)に託された復活の希望への憧れを重ねつつ、イースターの季節を思い起こさせる。しかしこの舞踊では、あえて季節観を特定する手だてを失している。十字架の闇、つまり私たちの罪の只中に立ち振る舞い、贖罪の犠牲が淡々と遂行されるため、その背景をあえて会衆の姿に委ねている。 舞踏のもうひとつの直接的な源は、能が自ら持つ幽玄性、つまりあの世とこの世の合間とを仲介する舞人の礼儀である。舞人はあくまでもあの世の出来事をこの世の姿で舞う象徴的な存在であり、たとえ基督の姿を表象しても、十字架の姿は舞人により顕わされた仮初めの姿に他ならない(ワキ)。私たち会衆の現実は、ただ舞人の手から受け取り、口にするパンとぶどう酒のみである(シテ)。ここに能が舞われるための祝宴の全貌が立ち現れると考えられる。 舞の内には十字架の犠牲のみではなく、イェスの様々な象徴が立ち現われる。聖霊によって宿る神の子の出自、貧しい大工の家に生まれ育った背景、山上にて純白の衣で栄光を顕した奇跡、アブラハムに示された犠牲の捧げ方、ゲッセマネの祈りや十字架上での「エリ エリ ラマ サバクタニ」と叫ばれた人の子としての葛藤の姿など、イェスの生涯に関わる多彩な姿が十字架を巡りつつ、あたかも曼陀羅のごとく混沌と交錯している。これは救済の歴史の中で起こる預言的な無時限性、つまり神の言葉が引き起こした永遠のときを刻む仕掛けに他ならない。 ![]() |
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