【コラム】 詩篇について

篇は古代から現代にいたるまで、礼拝での賛歌であったとともに、人々の生活に宗教的なランドスケープを形作ってきました。詩篇の多くはダビデに代表されるメシア王(油注がれた者)のヤハウェ神への信仰が告白されていながら、それは後に真実のメシアであるナザレ人イエスを生ける神の子とあがめる信仰に向けられました。

 詩篇は、イスラエルを完成に導く真実のメシアをめぐりながら、イエス・キリストを預言的に宿す雛形です。決して過去に途絶えた神殿祭儀の抜け殻ではありません。詩篇は、キリストが明らかにする神の慈しみの地上での展開を、会衆の心と唇に盛る祭具として、なおも有益な容姿をたたえます。

 神殿祭儀においては、ヤハウェが人間をねたむほど愛するがゆえに、地上の生きとし生けるものの内に追い求めたもうメシアの姿を、讃美として人々の心と唇に刻印されたのです。まさに詩篇は、生ける神の子が人の子として大地を歩みたもう生活と精神とを言い表す、永遠に涸れることのない生命の泉です。

 新約聖書を記した初代教会でも、詩篇は信者たちに血肉のごとく浸透していました。主イエスの口からも、詩篇の一句は巷の誰もが知るフレーズとして、メシアの容姿をイスラエルの伝統の内に確認する決めぜりふ台詞として登場します。こうして詩篇は、神殿祭儀で明らかにされる神秘の経験:罪の贖い、苦難からの救済、メシア王の統御、神の平和(エルサレム)などなどを、人々の口述によって記憶する役目を担っていました。

 アジアの風習のなかで、キリストの贖いを遠いユダヤの神殿祭儀の記憶と共に運ぶには、なお多大な年月が掛かります。しかしいつの日か、無益な犠牲を社会の基礎に置く文化が蔑まれ、父なる神の慈しみと感謝に生きる人々の集いを祝う風土が巷の人々の唇に絶えず刻まれていく時代を望むことは、決して無駄なことではないでしょう。




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