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| ◆古典派〜ロマン派の讃美歌の練習スケジュール 7月 英国のオックスフォード運動(礼拝音楽と主情表現のバランス)14,443,516 8月 独立戦争前後の米国の讃美歌(詩篇歌唱とカントリー・ダンス)13,16,56 9月 19世紀の米国の讃美歌1(L.メーソンとドイツ人音楽家)402,492,494 10月 19世紀の米国の讃美歌2(W.B.ブラッドバリーとアメリカ民謡)433,459,484 1.英国のオックスフォード運動 14,443,516 礼拝に必要なもの) 英語では礼拝をサービス(奉仕)、式文をオーダー(注文)と言います。これは礼拝で神の御前に立つ人々に相応の受け答えを促すためのものと理解できます。ロマン派時代は主情的な信仰を重んじるあまり礼拝のオーダーが崩れた時代でもありましたが、それに対し典礼の回復を唱えたオックスフォード運動もおこりました。オックスフォード運動では礼拝に必要とされる基本的な教理を讃美歌に託したのでした。14は神の支配について、205は主日の意義について、218は終末の世について、351は三位一体について、358はキリストの栄光について、390は使徒信条の「聖なる公同の教会」について、516は召命と応答について、などなどの内容が続きます。 一方で宗教改革の頃から教理の中心にあった、人間の罪の悲惨や神の怒りと慈しみのコントラストなどのモチーフは、比較的穏やかな表現になっていて、この辺りが19世紀的な特徴でもあります。このほかにもイギリスではよりロマンチックな讃美歌も作られ(443、460、505、507、518、529など)、これらの讃美歌は本国よりも米国で有名なものも少なくありません。 総合的な讃美歌集) 明治以来、日本で長く好まれている讃美歌は、比較的歴史の浅いものです。1860年にイギリスで古今聖歌集が編纂されたのが最初のことなので、1880年代に編纂の開始された明治期の讃美歌は体裁として最新のものを取り入れたことになります。それまでの讃美歌集は教派、地域、時代によって限定されていたのですが、古今聖歌集のように500年に渡る聖歌の歴史を網羅するものは初めての試みでした。ちょうど大英博物館やブリタニカ百科事典と似たような総覧的な趣向が興味深いところです。 オックスフォード運動から生み出された讃美歌は、百科事典のような讃美歌集のうちで中核的な内容を占めるものが多く、讃美歌のなかでも知情のバランスがとれたオーソドックスなものに属します。現代の私たちからみても、これらの讃美歌より新しいか古いか、主情的か教理的か、大衆的か教会的か、というような試金石になります。 総合的な讃美歌集を編纂するために役立ったのが、オルガンの和声に合わせた編曲版の製作です。バロック調のヘンデルも「もろびとこぞりて」のように古典的な様相で歌えますし、ルネサンス時代のジュネーヴ詩篇歌も旧讃美歌のOLD 100THのようにコラール風に仕立てられていました。このような時代性に適合するように適度に編曲することで、百花繚乱の讃美歌集に統一性をもたせることができたのです。現在ではこれら「讃美歌風」といわれる編曲方法は批判的に受け止められています。 今回の練習の要点) ◆大袈裟な言葉使いをする ・3つの「う」の発音(「い」の発音は逆) 語頭の浅い「う」うたう、語尾の深い「う」したがう、無声音の「う」きつね 語頭の深い「い」ちいさな、語尾の浅い「い」やしない、無声音の「い」わたしたち ・メロディの終りで大切な言葉のあるときは、歌舞伎役者のように言葉を噛むように口を動かす 話し言葉:まねくこえが → 歌い言葉:ま ねく こ ゑが ◆6度下降を低めに歌う(イギリス的ミーントーンの特徴) 2.独立戦争前後の米国の讃美歌(詩篇歌唱とカントリー・ダンス)13,16,56 移民社会のなかで多様化した文化と礼拝様式) 北アメリカに移住したアメリカ人はピューリタンであったことは歴史として語り継がれていますが、実際には多様な階層の人々が渡ってきたのでした。しかしながらピューリタンのもっていた教育や会衆政治の手法など生活上の規律は、アメリカ社会の形成に大きな影響を与えたことは否めないと思われます。このことは生活上の規範を聖書に求めていたこととも相まって、アメリカでのキリスト教会の文化を語るうえでも有益です。 ピューリタンの歌ってた讃美歌は主に詩篇歌となっていますが、当時の歌い方を評して「身の毛もよだつような調子っぱずれな騒音」と言った人も居ます。今でもイギリスのウェールズ地方やスコットランドのサッカー場で聴かれるライン・アウトという唱法は、日本の長唄や追分節とも似ていますが、英米での17世紀の詩篇歌唱を伺うことのできるものです。 一方で18世紀も後半になると、イギリスではウェスレー兄弟を中心とするメソヂスト運動が起こり、そこで展開された歌唱運動の影響をうけるようになります。Sacred Harpという曲集は、昔ながらの詩篇歌のように旋律だけを歌うのではなく、4重唱のコーラスで歌うように譜面が書かれています。これを歌うための歌唱学校(Singing School)というのも盛況だったらしく、今でも土曜の集会をもつ教会が少なからず残っています。 17世紀から18世紀というと、思想的にもバロック期から合理主義への過度的な転換期にあたり、移民たちの自由の概念や娯楽の質なども大きな転換期にありました。この緊張関係から生まれた讃美歌が今回練習する讃美歌なのです。信仰の規律と讃美歌の関係というと堅苦しいように思えますが、実際の話はピューリタンの生活習慣と新しい移民たちの間で交わされるものは、精神的なもの以外にも様々な事柄に行き渡ることは必須でした。ここで18世紀末の北アメリカの讃美歌についていえば、信仰に立ち帰るという場面ではピューリタン的な文化が優勢になり、新しい事柄への挑戦という面では新しい移民たちの持ち込んだ文化が優勢になるということが言えます。 新旧の音調の違い) ピューリタンの歌唱は長い旋律と甲高い声が特徴で、新しい移民の歌はリズミカルで人懐っこい感じです。 現在の楽器の音調はほとんどが平均律ですが、18世紀当時の音調には古いピタゴラス音律と新しいミーントーンとが入れ混ざっていました。ピタゴラス音律は鋭角的な音程ですが、ミーントーンは甘くぶら下がるような音調です。参考までにアメリカの代表的なシンガーであるボブ・ディラン(東部出身:平均律)とジョーン・バエズ(南部出身:ミーントーン)の歌唱のズレを聴いてみましょう。おもしろいほどに両者が噛み合わないことが判ると思います。こうしたことを手掛かりに13番の前半(ミーントーン)と後半(ピューリタン節)を歌い分けてみましょう。 ![]() 3.19世紀の米国の讃美歌1(L.メーソンとドイツ人音楽家)402,494,492 アカデミックな讃美歌集) 18世紀のアメリカの讃美歌が異なるメロディの接ぎ木によって出来ていたとすると、19世紀は様々な文化が融和的に混ざり合っていたということができます。ここではアカデミックな側面からアプローチした立て役者であるローウェル・メーソンについて述べます。L.メーソンはボストンの会衆派教会に属していたのですが、銀行員を務めるかたわら独学でヨーロッパの古典派の音楽を学び、1821年にはボストン・ヘンデル・ハイドン協会という組織を立ち上げました。このとき出版した讃美歌集がおおいに成功を博しました。このヘンデル・ハイドン協会は、アメリカにおいて大掛かりなオラトリオ(宗教的音楽物語)を演奏するために組織されたのですが、実際に演奏会にこぎ着けたのは1858年という大変気の長いものでした。アメリカで音楽の公開演奏の行なわれるコンサート・ホールが出来たのは19世紀に入っての事ですが、それまでは娯楽を文化的事業と考える人は少なく、比較的裕福な家庭でのサロン・コンサートという方法で楽しんでいました。19世紀初頭の英米においては、現在の私たちが知るバッハ、モーツァルトのような作曲家は宗教音楽のなかではあまりメジャーではなく、ヘンデル、ハイドンといった作曲家が英国での演奏体験からしても大きな影響力をもっていたことが伺えます。ここでは18世紀の信仰覚醒期の讃美歌と比べて、音楽理論にもとづくアカデミックな気風に彩られていることが判ります。1832年にはボストン音楽院を設立し、アメリカでの音楽教育の礎を築いています。その意味でL.メーソンは「アメリカ讃美歌の父」とも称されるようにもなったのです。 L.メーソンは独学のみには留まらず、度々ドイツに遊学しては当時の音楽家と交流をはたします。そうした影響下で当時のドイツでオラトリオを作曲していたL.シュポーア(492番)や、メーソンの後を受けてフィラデルフィアで活躍したドイツ系アメリカ人のW.フィッシャー(402番)が作曲を手掛けた讃美歌を合わせて練習したいと思います。 アメリカ的?ドイツ的?) メーソンは編曲も含めて多数の讃美歌のメロディを残しましたが、その評価は大衆的、民謡的、アメリカ的と当時からいわれました。今の私たちからすると親しみやすさ以上に、讃美歌というジャンルの形成に欠かせないエッセンスが凝縮されているような感想をもちます。その意味ではあまり練習する必要もないように感じますが、当時のドイツ・ロマン派やその亜流からアプローチしてみると、ピューリタンの故郷であるスコッチ・アイリッシュ的な気風の片鱗が見え隠れしてくるかと思います。逆に全面的にピューリタンの荒声が適用されるのではなく、むしろ古典的な風情のなかでほどよくブレンドされていることが判ると思います。この民族的な荒声と古典的な風情との連続性が、私たちの良く知るアメリカの一面になるのではないでしょうか。メーソンは移民社会における文化的融合を讃美歌において表現したということも考えられます。 ちなみにクラシック音楽におけるアメリカ的という表現は意外に理解しがたいもので、19世紀末に行なわれたニューヨーク・フィルハーモニーの最初の公演で、チャイコフスキーが自作自演を披露した際にも論評に載ったものでした。いわくチャイコフスキー以上にアメリカ的な作曲家はいないと。この点からみるとアカデミックな論評のなかでのアメリカ的という表現には大きな溝があるという感じもします。もちろんチャイコフスキーの場合は、公演での成功を機にアメリカにそのまま留まってもらいたいという願いも込められていたかもしれません。その水面下で増え続ける移民に伝道を行なっていたキリスト教会の姿のほうが、よりアメリカ的という本質を代弁しているようにも思います。 ◆今後の課題 現在進行中のため保留 |